解釈一致、解釈違いという言葉について

解釈一致、解釈違いという言葉をここ数年(つっても10年単位か?)よく耳にするようになった気がする。

たとえば、ひどくずぼらである、というイメージを持たれているひとが「冷蔵庫の中に卵があるのを忘れてて、賞味期限を一ヶ月切らしちゃったんだけど、まあ卵だし大丈夫だろって思って目玉焼きにして食べた」というエピソードを披露すると「その行動は解釈一致」と評されたりする。逆に、このずぼらなひとが「本棚の文庫本は出版社順、著者順、初版出版日順に並べてある」と言ったら「それは解釈違い」と評されたりする。

このとき、「解釈違い」という言葉は、あなたのことを誤解していた、というニュアンスではなく「あなたはあなたの人物像に似合わないことしている」というニュアンスで使われていることが多いと思う。そして、このような言葉の使われ方は、比較的新しい使われ方であるように思う。20年前だったら「キャラじゃない」あたりの言葉が使われていたかな?

ところで、今から書くこの段落はまるまる余談、脇道なんだけど、ぼくの認識としては、この使い方の「解釈違い」は、最初は二次創作などの文脈で「わたしの原作解釈とこの二次創作の作者の原作解釈は異なる」という意味で使われていた認識だ。それが転じて、自分の持っているイメージと異なる表象を持つさまざまなものに「解釈違い」という言葉が使われていくようになったのではないかと見ている(有識者によるツッコミを待ちたい)。結果としてある意味原作そのものである「本人」との間で「解釈違い」を起こしているのはなかなか面白い現象だ。

話を戻して、言葉は、その言葉をつかうひとの認識を形作る。虹の色の数はいくつか、という問いの答えが、使っている言語によって異なるのは、使う言語によって話者の認識が形作られる良い例だ。これは鶏が先か卵が先か、のような話でもあって、その逆方向、つまり、われわれがどう世界を認識しているかによって、言葉が作られていく、こともまた言える。犬と狼を区別しない世界観のもとでは、犬と狼が同じ単語で表される言語が生まれるというような話がこれに相当する。つまり、言葉の枠組みと認識の枠組みは不可分だ。

では「解釈違い」という言葉が、「だれかの人間性に対する解釈、つまりイメージを捉え損ねていた(違っていたのはイメージの方)」という意味ではなく「その言動はその人のイメージにそぐわない(違っているのは言動の方)」という意味の言葉として扱われてるようになった変化は、われわれの認識のどのような変化を反映しているのだろうか。あるいは、そのような言葉の使い方は、我々の認識をどのように変化させるだろうか。

誤解してほしくないが、ぼくはべつに「解釈違い」という言葉が「悪い使われ方」をしている、けしからん、という話をしていない。良い悪いを抜きにして、この言葉に注目することで、なにかぼくらの、「世界、とくに対人に関する認識の仕方」が以前と変化しているのではないか、という視点を持てそうじゃないですか? ということを言っているだけだ。

もちろんここから、「けしからん、先にあるべきはイメージではなくてありのままの人間性のほうだ、解釈などというイメージと実際が違うことに対して、実体の方が違う、というような用法はおかしい」という本質主義的な主張を導くこともできる。あるいは、「人間性そのものなんてものはアプリオリに存在するわけではなく、他者によって初めて見出され、物語られ、ある意味でっちあげられることによってフィクショナルに社会的に物語的に作り上げられるものだ。解釈違いという言葉が人間性に対して向けられるのは、それをよく表している」という社会構築主義的な主張を導くこともできる。

ぼくはどちらかというと後者の立場に近くて、「面白い変化が起こっているなあ」という感じでこの変化を眺めている。そもそも「キャラじゃない」という言葉がよく使われている時にはまだ「キャラ」というものがどこかに実体あるいは本質めいて措定されているが、「解釈不一致」だとあくまで無数の「解釈」が並行してあるだけ(本人の言動すら並列に置かれているところがおもしろい点だ)だし、より「解釈により人間性というものがある種フィクショナルに構築される」ということをよく捉えた言葉使いになっているとさえ言えるかもしれない。

そのようなアングルでもって眺めてみると、本質主義的な考え方の強い言葉が溢れているのと、社会構築主義的な考えが強い言葉が溢れているのでは、形成されるアイデンティティや、他者との葛藤のあり方にも違いが出てきそうだとも思う。そういう中での表現活動もまた、異なる在り方になっていく、あるいは今まさに変化の最中にあるかもしれない。

願わくば、「表現活動たるものこうあるべきだ」みたいな凝り固まった視点を持った自分ではなく、その時起きている表現活動をいったんそのまま受け取って柔軟に楽しむことができる自分でいたいものだと思う。

さて、このような文章を書くぼくは、ぼくを知る人たちにとって、解釈一致だろうか、それとも解釈違いだろうか。