TL;DR:
- マルクスは、生産手段(工場とかね)が資本家に独占され、労働者は生産手段を持たないため労働力を生活のためのもろもろに変換するしかないという状況を問題視した
- ソフトウェアエンジニアをはじめ、いわゆる「知識労働者」は、生産手段がその頭の中に存在するという点で、資本家に対して競争力を持つことができた面がある。ソフトウェアエンジニアが長らく転職市場で有利だったのはそのひとつの証左と見ていい
- 一方で、LLMの台頭で、その「生産手段」は資本家どころか、私企業に独占される未来は蓋然性が高いように見える
- ぼくたちは今まで見たことのない地獄に足を踏み入れているのかもしれない
- マルクスは、労働「からの」疎外という概念も提唱していて、雑に要約してしまうと、生産手段を失った労働者は、「自ら財を生み出す」という喜びを失ってしまう、ということを言っている
- だから、「手元にある生産手段」として、ローカルLLMに興味を持ち始めている
はじめに
ぼくは、マルキストではないがマルキシアンである、と自らを評している。つまり、マルクス主義者ではないが、マルクスが示した思想や分析に大きな価値を見出していて、その思想や分析は現代でも参照する、あるいは思考の梯子として使う価値がある、という立場です。この文章は、自称マルキシアンの筆者が生産手段とLLMの関係について思索をめぐらせたものです。
「生産手段」はだれのものか
マルクスは、「生産手段」についてかなり重要な思索をしている。曰く、資本主義においては、「生産手段」は資本家に独占され、労働者は生産手段を持たず、資本家に独占された「生産手段」に対して「労働力」を売ることで生活の糧を得るしかなくなっている、という。これは手工業から工場での生産に変わっていくのをイメージすると理解しやすい。つまり、この例で言う「生産手段」とは工場のことであり、「工場」に設備投資(まさに「資」本を「投」入)できる資本家が生産手段を独占することで、生産手段を持たない、つまり無産階級の人間は労働力をお金に変えることで生活していくしかなくなる、ということを問題視した。ここには非対称性があるので、資本家は、労働者が労働で生み出した価値以下の、生活ができる程度(つまり、「労働力」が再生産される程度)の賃金を払うだけでよく、労働者が生み出した価値の総量と労働者に還元される価値の総量には差分が生まれ、その差分を利潤として資本家が得るような非対称性が存在する、ということをマルクスは言ったわけだ。
この「生産手段」に関する考え方を、現代のいわゆる「知識労働者」に当てはめてみると、事態はすこし変わった様相をみせ始める。ソフトウェアエンジニアなどのいわゆる「知識労働者」の生産手段は、その頭の中にある。人間の頭の中にある生産手段は、資本家が労働者から召し上げることはできない。生み出す価値に貴賎はないはずなのに、現代において(ある意味では不当に)知識労働者の給与が高くなりがちなのは、「生産手段」を労働者が明け渡さずにすんでいるから、とみることも、そうおかしな話ではないはずだ。つまり、生産手段を召し上げられていないから、資本家に対して「つよく」出ることが可能だという見方だ。じっさい、それなりに安価なPCがひとつあれば、生産手段として成立する、というのは、「工場がなければ生産手段として成立しない」というのに比べればだいぶ生産手段が手元に民主化されていると言えると思う。まあ、これがトラフィックを支えるインフラがたとえばAWSなどに寡占されている、という話が絡むとまた複雑なのだけれど、傾向として。
一方、そのような「頭の中に生産手段がある」というありかたは、LLMの台頭によって変化を見せ始めているかもしれない。つまり、コーディングエージェントなどを筆頭に、いままで労働者の「頭の中」あった生産手段は、高機能LLMを運用できるビッグテックなどの私企業によって召し上げられ、その競争力の源泉を失うような未来の蓋然性はかなり高いと言っていいと思う。生産手段が資本家に独占されるのと、私企業に独占されるのは、果たして労働者にとって、あるいは、旧来の資本家にとって、どちらが幸福な形だろうか。ぼくは労働者の立場として、あまり楽観視していない。
労働「からの」疎外とローカルLLM
さて、マルクスは、労働「からの」疎外という概念も提唱している。これは雑に言うと、生産手段を召し上げられた労働者は、自ら財を産み出す喜びを失ってしまう、ということだ。手工業と工場の話で言えば、手工業でものを作って売っていた頃の労働は、自分の生産活動、生産したものがいわば「梃子」として働き、生産活動により社会と接続され、いわば自己実現が達成されていた。一方で生産手段を失い工場労働者として労働しているときには、自らの生産は社会と直接結びつかず、ほんらい喜ばしいものであった「労働」は単に使役される苦しみへと堕してしまう、という思想だ。
前節の議論と合わせて、マルクスの思索はソフトウェアエンジニアの未来に対して大変示唆に富んでいるとぼくは思う。つまり、「手元に生産手段を置いておく」ことの重要さを、もう一度考えてもいいと思う。前の記事で言及した通り、コーディングエージェントの進化は甚だしい。しかし、私企業が提供するコーディングエージェントは、そのまま私企業によって提供される「生産手段」を意味している。ぼくはその便利さ、強さを実感したからこそ、私企業が提供する生産手段に「依存」してしまうことにかなりの抵抗がある。つまり、私企業が提供する「生産手段」がないと生産ができないようになってしまったら、「生殺与奪の権」を私企業に独占されてしまうのではないか、その結果起こることは、マルクスが看破した資本家と労働者の非対称性をなぞることなのではないか。
これは、ソフトウェアエンジニアだけの問題ではなく、LLMモデルを持たない資本家にとっての問題でもある。つまり、資本家が生産手段を独占、あるいは寡占していたころはまだ牧歌的で、いち私企業が独占した時、資本家すら「生産手段」を失ってしまうということも十分にあり得る。
そこで、やはりぼくはローカルLLMに興味を惹かれてしまう。ローカルLLMは、ローカルの名の通り「手元に」生産手段を用意することができるわけだ。私企業がLLMを独占し、Evilなふるまいを始めたとしても、実用に足るローカルLLMがきちんと「対抗手段」として残されていれば、まだ「戦いよう」があるというものだ。そんなわけで、ビッグテック以外の資本家のみなさまにはぜひともローカルLLMにそれこそ「投資」するというオプションを持っていただきたいな、と思う。まあもちろん、フルマネージドなインフラ環境として私企業たるAmazonに依存しまくっている現状を見ても、「私企業に依存した方が結局は経済合理性があるよね」という話があり、そこまで話は単純なわけではないのだけれど……。
また、以上のような議論を考えると、いちソフトウェアエンジニアとしてもローカルLLMに対する知識を付けておくことはたいへん重要なのではないかと思っている。ので、週末はローカルLLMチャレンジをしてみようかな。そもそも「生産手段」が手元にないのは単純に気分が悪い、というのもあるので……。