「音の三原色」という夢(夢は夢である)

光の三原色、というものがある。これは、赤、緑、青の光をいろいろな強さでまぜることで様々な色が表現できる、というやつだ。

ところで、光は波である。色とは、言い換えれば、その光のどの周波数成分にピークがあるか、ということだ。つまり、赤の光の周波数成分と、緑の光の周波数成分と、青の光の周波数成分をうまく合成することで、可視光線内の任意の色の周波数特性を持つ波を作れる、ということである。同じく、音は波である。ならば、同じ理屈で、三つの音をうまいこと混ぜるだけで可聴域の任意の音が合成可能なのでは? と思いついたわけだ。つまり、「音の三原色」という夢である。

賢明なるみなさまにおかれては、「それは成り立たない」ということも同時に気づいたのではないかと思う。というのは、実は光の三原色というのは「光側」の特性ではなく、「人間の目の側」の特性だからだ。人間の目が、RGBそれぞれのピークを選択的にキャッチする。つまり、RGBの3色で再現されている「えんじ色」は、自然界にある「えんじ色」と同じ周波数特性を必ずしも持っているわけではなく、人間の目が選択的に捉えるピークにおいて同じ程度の成分が含まれていることしか意味しない。つまり、人間の目の分解能をうまくつかったのが光の三原色の仕組みであると言える。三つの波を合成して、あらゆる波を再現しているわけではなく、三つの波を合成することで、人間の目にとっては同じに見える波を合成している、というわけ。

一方、人間が音を聴くときは、そのような仕組みになっていない。可聴域というものは存在するが、可聴域において選択的にあるピークを聴き取っているわけではない。むしろ可聴域においてはあらゆる成分を聴くことができる、というほうが近いかもしれない。改めて人間の耳の分解能の高さに驚く。たった三つの波をうまく合成するだけで任意の音を再現する、ということはできないわけだ。

「音の三原色」という夢は夢として終わってしまうわけだけれど、同じ波であるはずの音と光でも、「人間の側の性能」で合成について異なる様相を見せるのは、すこし面白い違いだと思う。

「半分に割った赤いリンゴのイビツな方」はどのような形をしているか

スガシカオの名曲『アシンメトリー』には、「半分に割った赤いリンゴのイビツな方をぼくがもらうよ」という歌詞が出てくる。どこかでスガシカオ本人が、「このフレーズは、男の不器用な優しさがうまく表現されていてうまく書けたな、と思っていたんだけど、"半分に割ったんだから片方が歪ならもう片方も歪なんじゃないの?"と突っ込まれて"そうじゃん!"と気づいた。図らずも男のひとりよがりな浅はかさを表現することになってしまった」というようなことを言っていた覚えがあるのだけれど、それがどこだったかうまく思い出せない。スガシカオ本人がそう言っていた、というのもどこかでなんかの記憶がごっちゃになっているだけかもしれない。それはともかく、ぼくはこのエピソードが結構気に入っている。

しかし、である。「半分に割ったんだから片方が歪ならもう片方も歪なんじゃないの?」というツッコミは果たして正しいのだろうか? たしかに、りんごを「パカっ」と半分に割ったとき、片方が歪な形をしているのであればもう片方も歪になるというのは直感的には正しそうに思える。しかし、まずは話を簡単にするために、円で考えてみよう。いま、原点Oを中心とし、半径1の円Aがあるとき、座標(0,1)を通り、なおかつ中心が(0,a)ただし a > 0かつ a < 1であり、面積が円Aの半分であるような円を考える。このとき、円Aと円Bは以下のように描くことができる。

もとの円の面積を半分にし、片方が歪で片方が正円であるような分割方法

これは、もとの円の面積を半分にし、片方が歪で片方が正円であるような分割方法である。これを立体にまで拡張することで、「半分に割った球の歪な方と球体のほう」という分割が可能なことは自明である。つまり、こういうことである。

元の球の体積を半分にし、その片方が歪でもう片方が球であるような分割の仕方

つまり、「半分に割った赤いリンゴのイビツな方」と「そうでない方」というのは存在できるので、スガシカオさんは「図らずも男のひとりよがりな浅はかさを表現することになってしまった」と言う必要はないわけである。ひとりよがりのロマンチストの浅はかな男たちは、救われたわけである。しかし、こんなことを考えている人間はかなり救われないバカであるかもしれない。

株式会社ヘンリーに入社しました

株式会社ヘンリー | コーポレートサイト

エイプリルフールではありません。いわゆるIC的なポジションで様々な問題解決に精を出す所存です。入社初日で、まだまだなにも成しておらずですが、成果がきちんと出せるように努力していきたい。退職エントリを書いたので取り急ぎ対となる入社エントリを。

Classi株式会社を辞めます(最終出社済み)

corp.classi.jp

このようなニュースがありまして。このタイミングにて、親会社への転籍ではなくて転職を選ぶことにしました。3/31まではClassiに籍としては残りますが、すでに最終出社を終えております。社としてのClassiは解散、という形になりますが、Classi、tetoruの両サービスは親会社の運営にてしっかり継続されます。

企業の解散といえば、にっちもさっちもいかなくなって解散する企業がほとんどの中、利益をしっかりと出せている状態で親会社に吸収合併される形で解散、というのは、会社の解散としてはだいぶ幸せな解散の形なのではないでしょうか、と思っています。思えば、会社の最後を看取るという経験は生まれて初めてのことです。2018年8月入社なので、7年半も所属してしまいました。きっかけがなかったらもっと所属したかもしれません。2020年に大きなインシデントを起こしたのち、ビジネス、利益としても一度大きくしゃがむタイミングがありましたが、その厳しい期間にVPoTを任せていただけて、ビジネスと向き合い続けた結果、きちんと利益を回復させることができました。もちろん自分の力には限界があり、じっさいにやってくれたのは仲間のみなさんだという実感はあるのですが、その中で起こった変化をVPという特等席で見せれもらえたのはたいへんな僥倖であったと思います。そして、なにより、7年半、ずっと楽しかった。しんどかったことはもちろんたくさんあるんだけど、今となってはしんどさは手応えの裏返しでもあったなと思います。7年半、ほんとうに、楽しかった。会社にいる間ずっと幸せな関係を会社と維持できていたのは本当にありがたいことです。ありがとう。

次は決まっていますが入社がまだなので、また報告します。

Classiのvaluesである「Love Difference」「Make (it) Happen」「Unlearn & Learn」はぼくの仕事の根本に刻まれた価値観となりました。この価値観はずっと持ち続けて仕事を続けたいと思います。社内、社外から応援してくださったみなさま、7年半ありがとうございました。

あ、そうだ。Xは謎の凍結にあっておりまして、Xを使っての連絡がつきません。これを機にXからは足を洗おうと思っていますので、連絡は別の方法からお願いいたします。メールは多分見ます。discord( @shinpei0213 )に一番います。

mstdnのおひとりさまインスタンスにもいます

しんぺい (@shinpei0213@mstdn.nekogata.com) - 猫型インスタンス

『エヴァンゲリオン放送30周年記念特別興行』によせて

みなさん、これ、観ました?

https://youtu.be/t6ju8O7a89g?si=B4jNd3yXsU3g9PPm

観た前提で話を進めるので、前情報なしで観たい、というひとはこの先の文章は読まないことをお勧めします。

自分でもびっくりすることに、最初の感想は「惣流・アスカ・ラングレーを見せてくれてありがとう」だった。そのあと、いい年をした大人がぼろぼろと涙を流してしまった。『Air/まごころを、君に』でぼくのなかのエヴァンゲリオンはとっくに終わっていたはずなのに、惣流・アスカ・ラングレーのことがずっと心のどこかにひっかかっていたのだなあ、というのがあきらかになった形だ。だから、その感情やその思いをここに書き残しておきたいと思った。

惣流・アスカ・ラングレーというキャラクターは、「母親に自分を見てほしい」という渇望と、その代償行為として「他人に自分を見てほしい」という気持ちから、自分の有能さを周りにむかって証明し続けなければならないという強迫的な思いに突き動かされていたキャラクターであった、という読み方は、そんなに不自然ではないはずだ。だからこそ、終盤に向けてその証明をできなくなっていった際に拠り所をなくしてしまったのだと思う。ぼく自身はそこまで強迫的な感じではないけれど、「自分の価値を"その働き"で証明しないと居心地が悪い」という感覚はずっとあって、ぼくは惣流・アスカ・ラングレーのそういう部分に「リアリティ」を感じていたと思う。

今回の作品は、アスカの母がアスカのことをきちんと見てくれるという世界に対して、アスカ自身が「ノー」をはっきりとつきつけたことがすごいと思う。自分が渇望していたはずのものが目の前にあってなお、「しっくりこない」としてそれを否定したわけだ。これは、逆説的に「母に見てもらえなかった自分」を含めて自分自身である、ということの確認作業であったように思う。その上で、それを受け入れて飲み込んだ上で「自分の役割を全うし、自分の価値を自分で認める」という結論に至っている。結局のところ自分の存在価値を自分の働きによって担保するという構造自体は変わらないようにみえる。みえるけれど、「他人が自分をどう見るか」ではなくて、「他人との関わりの中で、自分で自分を認める」という転回があるように見えた。そして、これは本当に大きな違いだ。自分の価値が、他人に依拠しているのか、他人と関わる「自分」に依拠しているのか。そして、この違いは、ぼくの心のどこかにずっと未消化のままひっかかっていた惣流・アスカ・ラングレーの問題にたいして、鮮やかな回答だった。

また、「エヴァンゲリオンのない世界で?」という問いに対して、アスカが明確に否定していたことも、ぼくにとってはかなり重要度の高い点だった。新劇場版シリーズについてはぼくはじつは「あっそう」という目で見ていたのだけれど、まあ一応観てはいて、今回の作品も新劇場版も、結論だけ取り出せば同じと言ってもいいと思う。つまり、「現実にそこにいるひとたちとの関わりの中で、現実の問題と向き合うことで、自己を確立していく」という結論。しかし、同じであると思うが、新劇場版が「エヴァンゲリオンを捨てること」でそれを成し遂げた(とぼくは読んだ)のに対して、今回の作品はたった15分弱だけれど「TVシリーズおよび旧劇場を捨てずに」その結論に辿り着いたのだと思う。そしてそれは、やはり"『Air/まごころを、君に』でぼくのなかのエヴァンゲリオンはとっくに終わっていた"と言いながらも心の中にずっとそれを持ち続けたぼくにとっては、端的に言ってとても嬉しいことだったんだと思う。そして、新劇場版でだれもできなかった乗り越えかたを、この作品の惣流・アスカ・ラングレーはしていると思う。だからぼくの最初の感想が「惣流・アスカ・ラングレーを見せてくれてありがとう」だったんだな。書きながら理解した。

涙になって流れた気持ちは、たぶん、あと何ヶ月かしたあとに、別の形をとる気がしている。つまり、いまのこの気持ちを、もう少し落ち着いて、距離をとって眺めたときには、違う言語化がおこなわれる可能性がけっこうあると思う。だけど、この記事は「いまの気持ち」を書き留めるための記事なので、これでいいのだ。そして、ここでとりあえず、おしまい。最後にもう一度、惣流・アスカ・ラングレーを見せてくれてありがとう。

錦玉もなかの新曲『ワルツを踊る猫』がリリースされています

ちょっと告知が遅くなってしまったのですが、錦玉もなかの新曲『ワルツを踊る猫』がリリースされています。

youtu.be

つるさんのボーカルが相変わらず素晴らしくて、見る角度を変えるたびに表情が変わる、素敵な歌唱だと思います。いつも思うんだけど、「押し付けがましい表現」がないにも関わらず、たいへんに表情が豊かな歌唱ってどうやったらこんなことができるんだろう。わたしはたいへん久々にコントラバスを弾きました。たいへん久しぶりに弾いたわりにはけっこうちゃんとニュアンスが出ていて、演奏もお気に入りです。

2025音楽活動振り返り - 猫型の蓄音機は 1 分間に 45 回にゃあと鳴く で書いた通り、去年の反省を生かして今年は音源をしっかりリリースしていきたい意向があって、先月のバンドのリリースに引き続き錦玉もなかでもリリースができたので、目標を着々と達成していてなかなかに偉い気がします。じつはあと一曲レコーディング済みの音源が手元にあって、こちらも早々にタイミングを見てリリースしたいと思っています。

で、そういう最新情報はなんと錦玉もなかのYouTubeチャンネルの「投稿」から追えるようになっています。ぜひチャンネル登録いただければ嬉しいです。

「バカみたいな理想」から出発したい

ふと思い出したのだけれど、高校生の頃、夢はあるかと聞かれ、「世界平和」と答えていたことがある。当時仲良くしていた女の子も「21世紀は戦争のなくなった世紀として記録されるべきだし、そうしたい」なんて言っていた。冷笑的に見れば、夢みがちな子供だったわけだ。その後、大学で人文学を学び、どうやら倫理というものは思っていた以上に一筋縄でいかないものであるぞ、ということを知ったりもした。仕事をして、40歳も過ぎれば、社会や世の中というのはそう単純なものでもない、ということを学んだりもする。いろいろな意味で「力」を持たないものが、理想だけを声高に叫んでも、仲間が増えるどころか、賛同者は減り、敵視されることが増え、もっと状態は悪くなるなんてことだってあたりまえにたくさんあるのを知ったりして、そういうナイーブな理想主義を見て「やり方ってもんがあるだろうよ」と思うようになったりもした。夢みがちな子供も、無事、年嵩を重ね、現実的な嫌な大人になったってもんだ。

だけど、ぼくのなかにはずっと「夢は世界平和」なんて間抜けたことを言っている高校生の頃の自分が住んでいて、最近、この高校生のころの自分がまたわーわーと騒ぎ始めているように感じたりもする。それは社会の状況の変化によるものもあるかもしれないし、自分自身が「子供還り」をする年齢になっているのもあるのかもしれない。もちろん、この「夢見がちなガキ」をそのまま表出するようなことはしない。大人になって、そんなことをしても世の中は悪くなる一方だと知ってしまったから。だけど、同時にこうも思うわけだ。やはり、「出発点」は常に理想であるほうが良い。というか、理想はたぶん「到達点」ではなく、「出発点」であることにこそ意味がある。

「現実主義」というのはたいへんにだいじなものであるとぼくは思っていて、現実的にものごとを見ることができなければなにひとつ現実の問題は解決できない。しかし、「現実的である」というのは、気をつけなければ「現状を全て肯定する作業」になってしまう。だから、「現実主義者という名の単なる現状追認の敗北主義者」にならないためにも、出発点は常に「バカみたいな理想」であるほうがいいのだと思うし、その出発点をたまに振り返る必要があるんだと思う。バカみたいな理想を出発点に持ちながら、現実的な問題の解決をしていく、そういうふうに生活していたいし、そうしないと、高校生の頃の自分に顔向けができないよな、と今日見聞きしたさまざまから考えた。という記録。