「リズムの重心」という言葉について考えるのをやめた

最近のベースの練習で向き合っているリズムのオカルトを解き明かしたい - 猫型の蓄音機は 1 分間に 45 回にゃあと鳴く

この記事の続き。

この記事では暫定的に「重心って要するにアクセントね」と結論づけたが、どうもそのあとそう思って練習していてもまったくしっくりこない。

実際「アメリカのリズムは、リズムの重心がバックビートにある」みたいなことを言っているひとが「アクセントってことではない」と言っているのも見聞きして、「まあそうだよな」となった。

それではリズムの重心とは一体なんなのか。そう思っていろいろと調べていたら、あることに気づいた。リズムの重心について話している人の中で、「リズムの重心」の定義について、音量、タイミング、音質、音程などの要素を用いて「この要素のこれのこと」という形で説明している人が見当たらないのだ。その一方、「アクセントのことではない」をはじめ、「なになにではない」「こうではない」「ああではない」という説明は無数に行われている。それどころか、「音量、タイミング、音質、音高などで言うなんのことなんですか?」という質問に対して、「あなたは重心の違いを感じなかったのですか?」という逆質問をしている始末であった。

これは、教育ではなくてハラスメントの文法である。

もちろん、話者が悪意を持ってマウンティングしてやろうと思っているのだろう、とは私は思わない。本人が会得した、「心地よく感じるリズムを生み出す方法」を伝えたいという熱意は本物であるはずだし、話を聞いている自分も「なんか自分のリズムに違和感あるんだよなあ、クエストラブのようにいかねえんだよなあ」と実際に感じていて、そこにはなにかしらの「秘密」が隠されているということは体感している。

そうやって最善の相で「リズムの重心」という言葉について捉えると、「要素還元的なアプローチでそれを伝えようとすると、どうやってもハラスメントの文法でしか伝えることができない」という種類の概念なのではないか、ということが見えてくる。

わたしもバカではないので、世の中には要素還元的なアプローチでは理解が難しいものごとが存在するということは理解している。「複雑系」というのがまさにそれだという認識だ。そして、リズムという非常に音楽にとって根源的なもの、というか、リズムから人間が受け取る印象が、要素還元的には理解できないというのは、少なくとも自分としては納得できる。

つまり、「リズムの重心」という概念は、「音量、タイミング、音質、音高」などの要素還元的なアプローチでは理解、体得できず、全体を全体としてとらえることでしか理解、体得できないものなのだろう。そうである以上、「リズムの重心とはなにか」を分析することにはなんの意味もなく、理想としているリズムの音源を先生にして、自分で試行錯誤しながら練習することでしか理解、体得できないのであろう。

そう考えると、「リズムの重心とはなにかについて解説する」という行為や、「リズムの重心とはなにかを要素還元的に理解しようとすること」自体が意味のない行為であることも理解できる(一方、「リズムの重心」という感覚を、マンツーマンなどのレッスンで身につけることの有用性もまた同時に理解できる。だから、リズムの重心ということを言う人が「わたしがレッスンをすると生徒の演奏がガラリ変わる」と言うのも本当なのだろう)。「こういう練習をすることでリズムの重心という概念を体得することができることが広く知られています」などのアプローチには意味がありそうだ。

ということでわたしはもう「リズムの重心」という言葉について理解しようとすることをやめた。そのかわり、練習や試行錯誤を繰り返すことで、理想としているリズムに自分のリズムを近づけていくしかないのだと思う。

最後にひとつだけ恨み言を言うと、「説明」から身に付くものではないものについて「リズムの重心について説明します」という面をして無理に要素還元的なアプローチで説明しようとして、結局要素還元的には説明できず、要素還元的に学ぼうとしている人間を混乱の底に叩き込んでいるのは害悪であるとわたしは思う。だったらいっそ「これは音量とかタイミングとか音質とか音高とかそういう話で説明ができず、”バンドのリズム全体”で捉えるしかないものなので、理想のリズムを聴きまくって練習しまくって"理解"じゃなくて"体得"するしかないんですよ」ときちんと言えばいいのに。それができなくてコミュニケーションがハラスメントの文法になっちゃうの、「無能で十分説明できることに悪意を見出すな」というハンロンの剃刀にしたがって、そこに悪意を見出しはしないけど、「教えるひと」としては十分に無能だよな。一流のミュージシャンが一流の教師である必要もないのでしょうがないが。