すでにわかっているひとにはわかるけど、まだわかってないひとにはわからん文章

今日は掲題のような文章について。

世の中には「すでにわかっているひとにはよくわかるしとてもわかりやすいんだけど、わかってないひとにとってはなんのこっちゃかわからん」みたいなタイプの文章が存在すると思う。

たとえばソフトウェア開発の文脈で言うと、基本情報技術者試験の勉強の際に読むようなやつを想像してみてほしい。ぼくは基本情報技術者試験って結構役に立つよなあって思っている側の人間で、ある程度ソフトウェア開発の経験を積んだひとからもけっこう「内容はいいよね」っていう言葉は聞くと思う。で、この「内容はいいよね」ってところが結構ポイントだと思っていて、実際にソフトウェア開発の経験をある程度積んで、暗黙知や経験知がある程度溜まった状態、つまり「わかっている」状態であれらを読むと「わかるわかる」となるが、一方でそういう暗黙知や経験知がない状態で基本情報技術者試験に合格しても結構「とりあえず暗記したけどこれ結局どういうことなんだろう?」となりがりなのではないか(そういう体験談はちょいちょい耳にする)。

で、ぼくはこの「わかっているひとにはわかるけど、まだわかってないひとにはわからん文章」のことを悪いと言いたいわけではなくて、こういう文章の存在価値ってのはふたつくらいあるとおもっている。ひとつは、暗黙知や経験知を明確に言語にすることによって、既存の知の体系に組み込む、まさに「体系化」することが可能という価値がまずあると思う。なので「すでにわかっているひとにはわかるけど、まだわかってないひとにはわからん文章」は「すでにわかっているひと」にとっても結構重要なのだ。

じゃあ「まだわかってないひと」にとってはどうなのかっていうと、これは「なんとなく聞いたことがあるなこれ」っていうインデックスを脳に作っておく価値があると思う。まだ知恵になっていない知識を、先にをインプットしておくことによって、暗黙知や経験知を得たときに「あっ!!! これって!! あれのことじゃん!!!」と繋がることがあり、そういう場合は知識が先にインプットされていない場合に比べても強い経験知を得ることができると思う。ので、「すでにわかっているひとにはわかるけど、まだわかってないひとにはわからん文章」は、まだわかってないひとにとっても結構重要だと思う。

隙あらばじぶん語りをすると、ぼくはこの「知識を先にインプットしておく」というのが苦手という自覚があるけど、まあそれはまた別の話。

で、この話がどこにむかうかというと、最近「すでにわかっているひとにはわかるけど、まだわかってないひとにはわからん文章」としてめちゃめちゃいいなこれって思った文章があるので宣伝します。それは「システム及びソフトウェア品質の見える化、確保及び向上のためのガイド」です。

これは「システム開発、まじでむずい」「結局のところ、ユーザー理解含めた開発プロセスの品質を上げていくことでしか顧客価値って創造できないのでは……?」みたいなことを肌で理解しているひとにとってはおそらく「すでにわかっているひとにはわかる」やつで、なおかつ、その肌感覚をこれで言語化して「既存の知の体系」の中に組み込むことによって「説得したいひとを説得しやすい言語」を獲得できる文章であると思います。

<追記>

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