謙虚であるために、謙虚であってもらうために

謙虚と卑屈の違いについて考えていたら、思い当たったことがある。それは、卑屈は目線が自分だけに向いていて、謙虚は目線が他人とのコラボレーションに向いているのではないか、ということだ。

例えば、自分の作った曲が100万再生されたミュージシャンがいたとして、そのミュージシャンが「100万再生すごいですね」と言われた時の反応を例にとってみる。

それに対して、「いや、私なんてすごくないですよ、歌のピッチだって揺れているし、歌詞だって恥ずかしいものだし」と応えるミュージシャンと、「とても嬉しいですが、自分の力なんて微々たるものです。応援してくれたファンの方々がたくさん感想を拡散してくれたことも大きいですし、形にしてくれたレコーディング・エンジニアの方の力も大きいですし」と応えるミュージシャンを考えてみると、前者は卑屈に、後者は謙虚に見えるのではないだろうか。これは、前者はとことん「自分のダメなところ」に目線が向いているのに対して、後者は「達成したことについて、自分がやったことや他人がやったこと」に対して目線が向いているからなのではないかと思う。

仮に、自分の成果にばかり目線が向いているのが卑屈、自他のコラボレーションに目線が向いているのが謙虚である、という考え方が多くの人に受け入れられるとすると、以下のようなことも言えるのではないかと思う。それは、自分が謙虚であるためには他人のやること、やったことに対して敬意と感謝を持つことが重要である、ということと、他人に謙虚を求めるのであれば、そのひとの達成したこと(あるいは達成しようとしていること)に対して、自分や第三者がどのような役割を演じているかを添えて伝えることが重要である、ということだ。

自分が謙虚であるためには他人のやること、やったことに敬意と感謝を持つことが重要と言うのは説明の必要もないように思うけれど、他人に謙虚を求める場合に自分や第三者の役割を伝えるべきというのには少し飛躍があるかもしれないので補足をする。

他人に謙虚を求めるということは、逆に言うと当人の態度が今は謙虚でないように見えている、という前提がある(当たり前だ……)。それはとりも直さず、達成した(あるいは達成しようとしている)成果に関して、他人の貢献が見えていないあるいは認めていないように見えている、ということだ。謙虚でいてもらうためには、他人の貢献を認めてもらう必要がある。しかし、そもそも当人とっては自分一人の認知では他人の貢献が見えていなかったりそれを貢献だと認めていないからこそ、そのような態度になっているのだから、きちんと「こういう貢献があるよね?」と伝えてあげて、他人の貢献を認知してもらう必要があるだろう、という理路で、「謙虚を相手に求める場合には自分や第三者の貢献を同時に伝えた方が良い」ということが言えそう、という話。さらに言えば同時に「あなたの貢献としてこれこれこういう素晴らしいものがある」ということも伝えればより良いだろう。

そうじゃないと「自分の能力を低く評価しろってことか?」「自分の能力をお前は低く評価してんのか?」と受け取られかねないと思うし、そのようなすれ違いはあまりいい結果を産まないと思う。