ナレッジワーカーの集団にとってのアクセルは文化、ブレーキはルール。文化は行動が作る

よく、「仕事の属人性を排除して、仕組みやルールで標準化すべき」ということが言われる。これは決して間違えていないと思うけど、一方で片手落ちだと思う。たしかに、労働集約型の事業においては、「人数を増やせば増やすほど利益につながる仕組みやルール」を作ることが大事になるだろう。一方、知識集約型の事業においては、これは必ずしも真ではないと思う。

言ってみればあたりまえのことだけれど、ルールや仕組みは、増えれば増えるほど労働は平準化されていく。労働集約型の事業においては、「ローパフォーマーを減らすこと」のほうが、「ハイパフォーマーにさらに高いパフォーマンスを発揮してもらうこと」よりも重要だ。だって数がたくさん必要なんだもん。そのため、ハイパフォーマーにとっては「枷」になってしまうようなルールや仕組みであっても、その仕組みを課すことでローパフォーマーでも一定のアウトプットが出ることが重要となる。つまり、労働集約型の事業にとっては「ルールや仕組みを整備すること」が事業をより大きくするためのアクセルとなる。

一方、知識集約型の事業にとっては、ハイパフォーマーが、事業にとって本質的ではないルールや仕組みに邪魔されずに、事業にとって本質的な仕事に集中してできることのほうがむしろアクセルとなり、仕事を平準化するためのルールはブレーキとなる。たとえば、オーケストラについて考える。労働集約的な考え方で、楽器の素人を10,000人集めても、ブラームス交響曲を演奏するオーケストラは編成できない。けれど、少数精鋭の各楽器の達人が、演奏への造詣が深くなればなるほど、そのオーケストラには価値が出ることになる。このとき、このオーケストラのメンバーに対して「この楽器を演奏したあとは、必ず以下の手順にそって楽器をメンテナンスをすること」というようなルールを課したところで、あまり意味がないどころか有害である。なぜなら、優秀な奏者であれば、楽器のコンディションを損なって結果として自分の演奏が損なわれるようなことはしないし、「どれくらい楽器に対してメンテナンスをしていれば最適な状態を保てるのか」を深く理解しているはずだからで、ルールで手順を定めるよりも個々人に最適なメンテナンスをしてもらったほうがいいからだ。

そんな感じで、知識集約型の事業にとっては、「ルール」「平準化」はブレーキとして働いてしまう。では知識集約型の事業にとって、アクセルとなるものはなにか。それはおそらく「文化」なのではないかと思う。そして、文化は行動が作る。もしも、「いい演奏がしたい」というのが口癖なのに、そのための練習の効率を上げるための工夫は全然しないし惰性で練習するような行動様式を持つオーケストラがあったら、そのような行動様式が、そのオーケストラの文化となるだろう。そして、他方に「いい演奏がしたい」なんて表立っては言わないけれど良い演奏のために練習の効率を上げるための工夫や行動をあたりまえのようにするような文化のオーケストラがあった場合、前者が提供できる演奏の質(つまり顧客にとっての価値)の向上のスピードは、後者よりもずっと遅いものになるだろう。これはルールや仕組みでどうにかできる問題ではない。

あるいは、自分たちのパートの演奏技術の向上だけにかまけて、合奏したときの音楽の良さ(それが顧客、つまり聴衆にとっての価値だ)にはコミットしないような行動が多いオーケストラは、それが文化となるだろう。他方に、自分たちのパートの演奏技術よりも合奏したときの音楽の良さにコミットするような文化を持ったオーケストラがいたとき、どちらのオーケストラの演奏が、より聴衆にとって価値があるだろうか。これもルールや仕組みでどうにかできる問題ではない。

そのようなことを考えると、やはり知識集約型の事業においては、「文化」こそがアクセルとして機能するように思う。そして、「ルール」や「仕組み」は多くの場合ブレーキとして機能しそうだ。

もちろん、ブレーキはとても大事だ。なんのために? 事故を起こさないために。つまり、「ここを外すと事故につながってしまう」ということを防ぐための仕組みとしては、知識集約型の事業にとっても、ルールや仕組みは価値がとても高い。

というようなことを考えると、知識集約型の事業でより高い成果を上げるためには、「プラス事象を積極的に作るためにはルールではなく文化を作る(そのための行動をガンガンやる)」「ルールや仕組みは、マイナス事象を避けるために使う」という考え方が一定有効なのではないか。

ということを考えましたよ。

これを昨日の記事と繋げて考えると、「文化がナレッジワーカーの集団にとってのアクセル。そして文化は行動が作る。労働において許容される行動は、成果が実際に出でる行動である。つまり、自分のやりたいような形で、成果を出す行動をすることで、自分にとって理想に近い文化をアクセルとして使えるようになっていく」ということになりそうだ。