「当事者」になれないわたし

ぼくは空気を読むのが得意な方ではない。と書き始めて思ったけれど、そもそも、おそらく「自分は空気を読むのが得意で」などと自信を持って言えるひとはそうそういないかもしれない。頭ではそうわかっているのだけれど、感情の部分で「"空気を読むのが得意で"と自信を持って言えるひとはいいなあ」なんて思ってしまっている自分もいるのだ。

だって、「自分は空気を読むのが得意で」と自信を持って言えるようなひとは、逆説的なことだけれど、なんだかむしろ「自然体」で過ごしているような気がする。「空気を読む自分」と「その空気の中にいる自分」の間に1mmのズレもなく、「空気の当事者」であることに対して違和感を感じることなく過ごせる、そんな自然体。そんな明瞭な当事者でいられる強さ。「自分は空気を読むのが得意で」とてらいなく言えてしまうひとには、そんな強さを感じ取ってしまう。

翻って自分を見てみると、なんだか空気を読む自分とその空気の中にいる自分の間に、もやもやとしたズレがあるような気がする。べつに「空気を読んでしまった結果本当の自分を殺してしまっている!」なんて思っているわけではない。むしろ本当の自分なんてものがあるのであれば、きっともっと自然体で空気を読めるのではないか。本当の自分なんてものをしっかり持っていれば、本当の自分と「場に求められる自分」の間の距離をしっかりと測ることができる。だからこそ自然に空気に順応することができるのではないか。ぼくの場合、むしろ本当の自分みたいなものがなんだかふわふわしているから、自分と場の距離感を掴みそこねて、場の空気を読もうと変な力が入りすぎて空回りしたり、逆になんだか全然空気を読めなくて無礼な感じになってしまったりしているのではないか……。

しかも、そんな自分を、まるで他人のように、ズレた位置から眺めている自分。ぜんぜん当事者な感じがしない。当事者になれないままなんだかふわふわとプログラマの定年と言われる35歳を迎えようとしています。そのあとは不惑が待っている。ふわふわとしたまま不惑を待つ。けどまあ、きっとみんな大なり小なりそんなふわふわを抱えて生活してるのではないか。ふわふわしたまま大人になったっていいじゃない。だめ?