大LLM時代、コンピュータがその名の通り「計算機」であることの重みはますます増しているかもしれない。こう考えた理由はふたつあって、ひとつは、まさに「計算機」であることのポテンシャルを活かしに活かしているのが昨今の大規模言語モデルであるということ。大規模言語モデルは「計算量でぶん殴る」ことで成立している。たぶんだけど、「大インターネット時代」はむしろ「記録できること」「ネットワークを横断して記録がコピーできること(ダウンロード、アップロードとは本質的にデータのコピーである)」がその恩恵を支えていたが、LLMに関してはまさに「計算機であること」がその恩恵を支えている。ここにきて、コンピュータがその名のとおり「計算機」であることが重要なファクターとなっているわけだ。もうひとつの理由は、LLMが容易にカーゴ・カルト化するであろうということ。どれだけ賢く見えても、コンピュータは「計算機」である。だから膨大なテキストはベクトルという計算可能なものに変換する必要があるし、どれだけブラックボックスでもその中でなされているのは「計算」である。この認識はLLMがカーゴ・カルト化することをある程度防いでくれるのではないか。
と、まあ、このような思索は「無為な思索」の類だろう、とも思う。しかし一方でプロンプトを与えらえたわけでもないのにこうやって無為な思索をするのは人間に残された贅沢ではあろう。だし、前段で述べた通りコンピュータはその名の通り「計算機」である、という認識に立てば、こういう「無為な思索」が計算可能であるか、あるとすれば、どのように計算可能になるかを考えることは、問うに値するかもしれない。