マネジメントの放棄を正当化するような格言めいたものがこの世には流通しているかもしれない

ちょっと前にツイッターで以下のようなことを書いた。

「自分で考えて動く」みたいなのすごい大事だとぼくも思うけれど、それをするためには「どんな役割を担ってほしいか」「達成してほしいことはなにか」「どこまで自分の裁量でやっていいか」がそれぞれ明確になってないと無理だよね。逆にそこさえ揃ってれば、よほどのタコじゃない限り自分で動くと思う

これに対して、「マネージャーがそれをやらないのはマネジメントの放棄だよね」というリプライがついて、「なるほどたしかにそうだなあ」と思ったのだけれど、マネジメントの放棄と呼ぶべき状況ってのは、これの他にも、ちょっと注意して見てみるといろいろなところで目にすることがあるかもしれない。

たとえば、たまに耳にする「社会人は結果が全て」という言葉について。ここでいう「結果」というのはなんだろう。マネジメントするひととされる人の間で「あなたが達成すべき結果はこれですよ、これに向けて頑張ってください」がきちんと合意と納得の上で設定されているのであれば、いいと思う。けど、この言葉が使われる文脈は、なんだか多くの場合「いいから売上あげろや(売上を上げるためのプロセス目標などは特に設定されない)」みたいな感じの上にあるような気がする(要出典)。

もう少し別の言い方をすると、たとえば、まだひとりで案件を受注まで持っていけないひとや、プログラマであれば、ひとりでプロダクトを完成まで持っていけるスキルがないひとに対して、「結果が全てです、あなたは案件を受注してないので結果なしです」「結果が全てです。あなたはプロダクトを完成させられなかったので結果なしです」と言ってしまうのは、マネジメントの放棄と言って差し支えないだろう。

そういう人達には、たとえば、「まずは一ヶ月にn社とアポを取って面談することを目標にしましょう」だとか、「メンターとコミュニケーションを密に取って、一日ふたつプルリクがマージされるのを目標にしましょう」だとか、そういう「会社にとってプラスになる行動だし、本人にちゃんと達成できる目標」をきちんと(相談の上)設定する必要があるだろう、というような話だ。

多分、冒頭に書いた例や今書いた例に限らず、いろんなところでマネジメントの放棄や、それがあたかも格言めいた言い方で正当化されることが起こっている気がする。なんとなくそう思うってだけで確証があるわけではないのだけれど。

ひとりひとりのメンバーに対して適切なマネジメントレベルも違う(この記事でぼくがあげたようなレベルのマネジメントが不要なハイレベル人材もいますよね)から、マネージャーってけっこう大変な仕事だと思う。だから、ついつい自分の耳に甘く響く「マネジメント放棄を正当化する格言」に逃げちゃったりしがちかもしれないけど、だからこそそういう言葉にうっかり乗っかってしまわないように気をつける必要があるよな、と感じた。

蛇足を書いておくと、もちろん、マネジメントされる側が自分を律するためにそういうの使うってのはあってもいいかもしれないけど、マネジメント放棄されてるところで無理に頑張ると心が壊れるので、そういう時は無理しないでほしい。