村上春樹の作品『ダンス・ダンス・ダンス』には、「文化的雪かき」という表現が登場する。
彼女から月面の絵はがきが届いた一週間後に、僕は仕事で函館に行くことになった。例によってあまり魅力的とは言いがたい仕事だったが、僕は仕事のよりごのみが出来るような立場にはなかった。それにだいたい僕のところに回ってくるどの仕事をとってみても、そこにはよりごのみをするほどの差はないのだ。幸か不幸か一般的に物事というのは端っこに行けば行くほど、その質の差が目立たなくなってくる。周波数と同じことだ。あるポイントを越してしまうと、隣接する二つの音のどちらが高いかなんて殆ど聴きわけられないし、やがては聴きわけるまでもなく何も聞こえなくなってしまう。
それはある女性誌のために函館の美味い食べ物屋を紹介するという企画だった。僕とカメラマンとで店を幾つか回り、僕が文章を書き、カメラマンがその写真を撮る。全部で五ページ。女性誌というのはそういう記事を求めているし、誰かがそういう記事を書かなくてはならない。ごみ集めとか雪かきとかと同じことだ。だれかがやらなくてはならないのだ。好むと好まざるとにかかわらず。
僕は三年半の間、こういうタイプの文化的半端仕事をつづけていた。文化的雪かきだ。
村上春樹. ダンス・ダンス・ダンス (講談社文庫) (p. 25). (Function). Kindle Edition.
ぼくなりに要約すれば、「質がそこまで問われない、穴埋めのための、しかし必要な仕事」という感じだろうか。こういう「文化的雪かき」はおそらくいたるところにあって、たとえば動画のBGMなんかも、こだわらないひとはこだわらない。けどないと寂しい。結果として「フリー素材」が使われたりする。あるいはイラストについても、そこまでこだわりがないけれど、ないと寂しい、必要ではある、というようなものがある。「文字を読む動画」系でバックに使われている画像なんかもそういうものが結構あるんじゃないかな。
いまぼくが例に出した「文化的雪かき」的な仕事は、歴史的にはその座を「フリー素材」に奪われてきたと言ってもいいと思う(もちろん、全てが奪われているわけではないが)。それまでだったらイラストを発注してきたところを、「いらすとや」のイラストを使う。あるいは、それまでならばBGMを発注してきたところを、「シャイニングスター」を使う。面白いもので、「いらすとや」のイラストはさまざまな色覚特性を持った人たちに対しての配慮が行き届いていたり、「シャイニングスター」だってもう聴き飽きてはいるけど実際よくできた楽曲、アレンジであることはたしかだったりと、「質にこだわらない」はずが「フリー素材」のほうが安定した品質になったりするということが起こっている。一方、広く、よく使われるものは「あまり尖っていないもの」となるということもある。文章については「フリー素材」化が進んでいないような気もしているが、これは文章は(それこそダンス・ダンス・ダンスで主人公が書いているような)穴埋め的なものであっても「繰り返し同じものを使う」ことが嫌われるからだろうか?
さて、そういう流れをざっと見たうえでこんにちにの「文化的雪かき」を眺めてみると、生成AIと呼ばれるような技術がその「文化的雪かき」を担い始めているのを感じざるを得ないのではないだろうか。YouTubeには「これは明らかに生成AIによる画像だな」という画像をバックに作られた動画が結構流れてくるし、文章がメインコンテンツである作品(やブログ記事)に添えられるイラストや画像が生成AIによるものであるケースも増えてきている。「雪かき的」な文章も、早晩生成AIによる生成物に置き換わっていくことは想像に難くない。「まとめサイト」の内容だとか「まとめ動画」なんかのスクリプトなんかどんどんAI化していってない?
「文化的雪かき」の「だれかがやらなくてはならないのだ。好むと好まざるとにかかわらず。」というところに「だけ」注目すると、これは一見良いことのように見える。しかし、「文化的雪かき」には「好むと好まざるとにかかわらずだれかがやる必要がある」「端っこにいけば行くほど細かい違いなんてわからなくなるからどうでもいい」という側面もあるが、一方で少なくともダンス・ダンス・ダンスの主人公は、複雑な誇りのようなものもまた、「文化的雪かき」に対して抱いているのも見て取れる。
翌日はカメラマンが料理の写真を手早く写し、その間に僕が店主に話を聞く。手短に。全ては三日で片付く。もちろんもっと早くすませてしまう同業者もいる。でも彼らは何も調べない。適当に有名店を選んで回るだけだ。中には何も食べないで原稿を書く人間だっている。書こうと思えば書けるのだ、ちゃんと。率直に言って、この種の取材を僕みたいに丁寧にやる人間はそれほどはいないだろうと思う。真面目にやれば本当に骨の折れる仕事だし、手を抜こうと思えば幾らでも抜ける仕事なのだ。そして真面目にやっても、手を抜いてやっても、記事としての仕上がりには殆ど差は出てこない。表面的には同じように見える。でもよく見るとほんの少し違う。
村上春樹. ダンス・ダンス・ダンス (講談社文庫) (p. 42). (Function). Kindle Edition.
この小説には何度も「雪かき」のモチーフが出てくる。そして、すごく雑にまとめてしまえば、雪かきは「現実にとどまること」の象徴としての側面も付与されているように読める。たしかに、「文化的雪かき」のような、雪かき仕事は「地に足がついている」。というか、「くだらないと思うような仕事だけれど、地に足をつけたやり方でやっていること」が主人公のちょっと捻くれた誇りとして描かれているというような読み方ができると思う。
このような「文化的な雪かき」が人間の手からどんどん離れていったとき、ぼくたちの精神構造や社会の構造にどういう変化が起こるのかについては、まだだれも知らない。ぼくはそこまでひどく悲観もしていないけれど、ひどく楽観もしていない。「煩わしい雪かき」から解放されることは良いことのようにも感じる。一方でこの小説に見られるような「雪かきによって担保されていた現実感」というものもどこかにあるのかもしれない。
ダンス・ダンス・ダンスでは、「高度資本主義」という言葉も繰り返し登場する。曰く、高度資本主義の中では、「イメージ」さえもパッケージ化されて商品になる、と書かれているが、現代のぼくたちは実際にイメージが商品化される世界を当たり前に生きていると言える。ダンス・ダンス・ダンスの主人公は、高度資本主義を一種の諦めとともに受け入れ、認識、把握しつつも、決して馴染んではおらず、しかし馴染んでいない中で「現実」の中でステップを踏み続けようともがいていた。
それで僕は無駄というものは、高度資本主義社会における最大の美徳なのだと彼に教えてやった。日本がアメリカからファントム・ジェットを買って、スクランブルをやって無駄に燃料を消費することによって、世界の経済がそのぶん余計に回転し、その回転によって資本主義はより高度になっていくのだ。もしみんなが無駄というものを一切生み出さなくなったら、大恐慌が起こって世界の経済は無茶苦茶になってしまうだろう。無駄というものは矛盾を引き起こす燃料であり、矛盾が経済を活性化し、活性化がまた無駄を作りだすのだ、と。
そうかもしれない、と彼は少し考えてから言った。でも自分は物資不足の極とも言うべき戦争中に子供時代を送ったせいか、そういう社会構造が実感としてよく摑めないのだ、と言った。 「私らは、どうもあなたがた若い人とは違って、そういう複雑なのにはどうも上手く馴染めんですな」と彼は苦笑しながら言った。
僕も決して馴染んでいるわけではなかったが、話がこれ以上長くなっても困るので、別に反論もしなかった。馴染んでいるのではない。把握、認識しているだけなのだ。そのふたつの間には決定的な差がある。でもとにかく僕はオムレツを食べ終え、彼に挨拶をして席を立った。
村上春樹. ダンス・ダンス・ダンス (講談社文庫) (p. 46). (Function). Kindle Edition.
「現実にとどまり続けること」は、これからより難しくなっていきそうだ。地に足のついた「雪かき」をしなくてよくなっていく中で触れる大量のフェイクニュース。ポストトゥルース。フィルターバブル。いままでよりも速いスピードで、「文化的雪かき」から人間が解放、あるいは疎外される社会の中で、自らを見失わずに、しかしステップを踏み続けるのが、たぶんぼくたちがするべきことなんだと思う。そのためには何をしたらいいんだろう? 少なくとも生成技術を頭っから否定したり接触を断つことではないことはたしかだし(そんなことをしたら羊男になってしまう)、全てを無批判に受け入れることでもないだろう。これから先、自分が、世界が、うまく踊り続けることができるとよいな、と思う。
街には選挙ポスターが溢れていた。どれもこれも醜いポスターだった。選挙演説の車も走りまわっていた。何を言っているのかはよくわからない。ただうるさいだけだ。僕はキキのことを考えながら、そんな街を歩きつづけた。そしてそのうちに僕は、少しずつ自分の足が動きを取り戻し始めていることに気づいた。ステップが軽く、そして確かになり、それにつれて頭の動きにも以前にはない鋭さが感じられるようになった。僕はほんの少しずつではあるけれど一歩一歩前に進んでいるのだ。僕は目的を持ち、それによってごく自然にフットワークを身につけてきたのだ。悪くない徴候だった。踊るのだ、と僕は思った。あれこれと考えても仕方ない。とにかくきちんとステップを踏み、自分のシステムを維持すること。そしてこの流れが僕を次にどこに運んでいくのか注意深く目を注ぎつづけること。こっちの世界にいつづけること。
村上春樹. ダンス・ダンス・ダンス (講談社文庫) (p. 256). (Function). Kindle Edition.
ところで、話は変わるけれど、ぼくがこの小説の中でもっとも好きなシーンは「本物のハンバーガー」について言及されるシーンだ。
「もう帰ろう」と僕は言った。「日も暮れたし腹も減った。少し散歩してまともなハンバーガーを食べにいこう。肉がかりっとしてジューシーで、トマト・ケチャップがとことん無反省で、美味く焦げたリアルな玉葱のはさんである本物のハンバーガー」
村上春樹. ダンス・ダンス・ダンス (講談社文庫) (p. 384). (Function). Kindle Edition.
「肉がかりっとしてジューシーで、トマト・ケチャップがとことん無反省で、美味く焦げたリアルな玉葱のはさんである本物のハンバーガー」を食べることはおそらく「現実にとどまること」の一部であるだろう。ぼくも本物のハンバーガーが食べたい。
なお、この記事は引用部分以外は一文字一文字人間がタイプすることで書かれた。文化的雪かきでもなんでもない、「ホビーとして書かれた文章」である。