「バカみたいな理想」から出発したい

ふと思い出したのだけれど、高校生の頃、夢はあるかと聞かれ、「世界平和」と答えていたことがある。当時仲良くしていた女の子も「21世紀は戦争のなくなった世紀として記録されるべきだし、そうしたい」なんて言っていた。冷笑的に見れば、夢みがちな子供だったわけだ。その後、大学で人文学を学び、どうやら倫理というものは思っていた以上に一筋縄でいかないものであるぞ、ということを知ったりもした。仕事をして、40歳も過ぎれば、社会や世の中というのはそう単純なものでもない、ということを学んだりもする。いろいろな意味で「力」を持たないものが、理想だけを声高に叫んでも、仲間が増えるどころか、賛同者は減り、敵視されることが増え、もっと状態は悪くなるなんてことだってあたりまえにたくさんあるのを知ったりして、そういうナイーブな理想主義を見て「やり方ってもんがあるだろうよ」と思うようになったりもした。夢みがちな子供も、無事、年嵩を重ね、現実的な嫌な大人になったってもんだ。

だけど、ぼくのなかにはずっと「夢は世界平和」なんて間抜けたことを言っている高校生の頃の自分が住んでいて、最近、この高校生のころの自分がまたわーわーと騒ぎ始めているように感じたりもする。それは社会の状況の変化によるものもあるかもしれないし、自分自身が「子供還り」をする年齢になっているのもあるのかもしれない。もちろん、この「夢見がちなガキ」をそのまま表出するようなことはしない。大人になって、そんなことをしても世の中は悪くなる一方だと知ってしまったから。だけど、同時にこうも思うわけだ。やはり、「出発点」は常に理想であるほうが良い。というか、理想はたぶん「到達点」ではなく、「出発点」であることにこそ意味がある。

「現実主義」というのはたいへんにだいじなものであるとぼくは思っていて、現実的にものごとを見ることができなければなにひとつ現実の問題は解決できない。しかし、「現実的である」というのは、気をつけなければ「現状を全て肯定する作業」になってしまう。だから、「現実主義者という名の単なる現状追認の敗北主義者」にならないためにも、出発点は常に「バカみたいな理想」であるほうがいいのだと思うし、その出発点をたまに振り返る必要があるんだと思う。バカみたいな理想を出発点に持ちながら、現実的な問題の解決をしていく、そういうふうに生活していたいし、そうしないと、高校生の頃の自分に顔向けができないよな、と今日見聞きしたさまざまから考えた。という記録。