みなさん、これ、観ました?
https://youtu.be/t6ju8O7a89g?si=B4jNd3yXsU3g9PPm
観た前提で話を進めるので、前情報なしで観たい、というひとはこの先の文章は読まないことをお勧めします。
自分でもびっくりすることに、最初の感想は「惣流・アスカ・ラングレーを見せてくれてありがとう」だった。そのあと、いい年をした大人がぼろぼろと涙を流してしまった。『Air/まごころを、君に』でぼくのなかのエヴァンゲリオンはとっくに終わっていたはずなのに、惣流・アスカ・ラングレーのことがずっと心のどこかにひっかかっていたのだなあ、というのがあきらかになった形だ。だから、その感情やその思いをここに書き残しておきたいと思った。
惣流・アスカ・ラングレーというキャラクターは、「母親に自分を見てほしい」という渇望と、その代償行為として「他人に自分を見てほしい」という気持ちから、自分の有能さを周りにむかって証明し続けなければならないという強迫的な思いに突き動かされていたキャラクターであった、という読み方は、そんなに不自然ではないはずだ。だからこそ、終盤に向けてその証明をできなくなっていった際に拠り所をなくしてしまったのだと思う。ぼく自身はそこまで強迫的な感じではないけれど、「自分の価値を"その働き"で証明しないと居心地が悪い」という感覚はずっとあって、ぼくは惣流・アスカ・ラングレーのそういう部分に「リアリティ」を感じていたと思う。
今回の作品は、アスカの母がアスカのことをきちんと見てくれるという世界に対して、アスカ自身が「ノー」をはっきりとつきつけたことがすごいと思う。自分が渇望していたはずのものが目の前にあってなお、「しっくりこない」としてそれを否定したわけだ。これは、逆説的に「母に見てもらえなかった自分」を含めて自分自身である、ということの確認作業であったように思う。その上で、それを受け入れて飲み込んだ上で「自分の役割を全うし、自分の価値を自分で認める」という結論に至っている。結局のところ自分の存在価値を自分の働きによって担保するという構造自体は変わらないようにみえる。みえるけれど、「他人が自分をどう見るか」ではなくて、「他人との関わりの中で、自分で自分を認める」という転回があるように見えた。そして、これは本当に大きな違いだ。自分の価値が、他人に依拠しているのか、他人と関わる「自分」に依拠しているのか。そして、この違いは、ぼくの心のどこかにずっと未消化のままひっかかっていた惣流・アスカ・ラングレーの問題にたいして、鮮やかな回答だった。
また、「エヴァンゲリオンのない世界で?」という問いに対して、アスカが明確に否定していたことも、ぼくにとってはかなり重要度の高い点だった。新劇場版シリーズについてはぼくはじつは「あっそう」という目で見ていたのだけれど、まあ一応観てはいて、今回の作品も新劇場版も、結論だけ取り出せば同じと言ってもいいと思う。つまり、「現実にそこにいるひとたちとの関わりの中で、現実の問題と向き合うことで、自己を確立していく」という結論。しかし、同じであると思うが、新劇場版が「エヴァンゲリオンを捨てること」でそれを成し遂げた(とぼくは読んだ)のに対して、今回の作品はたった15分弱だけれど「TVシリーズおよび旧劇場を捨てずに」その結論に辿り着いたのだと思う。そしてそれは、やはり"『Air/まごころを、君に』でぼくのなかのエヴァンゲリオンはとっくに終わっていた"と言いながらも心の中にずっとそれを持ち続けたぼくにとっては、端的に言ってとても嬉しいことだったんだと思う。そして、新劇場版でだれもできなかった乗り越えかたを、この作品の惣流・アスカ・ラングレーはしていると思う。だからぼくの最初の感想が「惣流・アスカ・ラングレーを見せてくれてありがとう」だったんだな。書きながら理解した。
涙になって流れた気持ちは、たぶん、あと何ヶ月かしたあとに、別の形をとる気がしている。つまり、いまのこの気持ちを、もう少し落ち着いて、距離をとって眺めたときには、違う言語化がおこなわれる可能性がけっこうあると思う。だけど、この記事は「いまの気持ち」を書き留めるための記事なので、これでいいのだ。そして、ここでとりあえず、おしまい。最後にもう一度、惣流・アスカ・ラングレーを見せてくれてありがとう。