"いつだって少しだけ本当には届かない"

というフレーズを中心にした曲を書いたことがあって、この曲は自分でも結構気に入っていていろんなバンドでやったりしてるんだけど、まあちょっとそんなことを今日は書こうかなって思ってる。

このブログは最初は技術ネタを書くブログにするつもりだったんだけど、いつの間にかなし崩し的に雑文も書くようになってきてて、って思ったらちょうど今ツイッターですずちうさんっていうひとが「インターネット戦略」という言葉を発していて、「あ、ぼくもこのブログ、インターネット戦略間違えたな」なんて思っている。なんの話かって言うと、要するに、意図というものと表現(そもそもこの「表現」という言葉さえぼくの意図とずれがあるわけだけど)の間には必ずずれがあって、それは結構辛いことでもあるんだけどそう絶望したもんでもないよな、っていうかむしろそこには可能性のようなものすらあるんじゃないの、って話をしたいな。と思ったのでした。

そもそもこの話を書こうと思った直接のきっかけは 誤配と可能性 - サイトシーイング とか 言葉が薄っぺらい人 - ライフ・イズ・カルアミルク を読んだことで、ぼくはぼくなりに「誤配」について考えていたことを書こうかなって思ったのです。

冒頭に「いつだって少しだけ本当には届かない」ってフレーズを中心にした曲を書いたことがあると書いたけれど、そこに続くフレーズは「だけど歌うことは 祈りにも似た」というフレーズで、つまりこれはじょーねつが言うところの "現実、というか、本当の何かと言ったらいいのか、そういう何かに言葉が届かない、引っ掻かない。言葉は言葉でしかなくて、発した傍からすべて上滑りしていく。" というのと似たアレで、アレだよアレ、つまりアレ。こういうアレは実に悲劇的なことであって、「主体」とか「自分の気持ち」とか「自分の考え」というものを相手に余すところなく伝えたい!みたいな欲望は常にこの「アレ」の前に敗北することが既に決定されている。ぼくたちはいつだって本当には届かないし、意図通りにブログを運営できないし、やせようやせようって思ってもビール飲んじゃうし、お手洗いにいきたいな〜って思っててもついついタイムラインから離れられずに我慢しちゃっておもらしする女の子とかいたらかわいいかな、どうかな、だめかな。だめだろ。みたいなことになる。ならない。じょーねつのまねしようとしたら文章が暴れ回ってどうしようもない。

まあ要するに(と言って要せたことがない)ぼくたちはそのアレのせいでいつも「意図」(そもそも意図というものはしっかり存在するのか?遡及的にねつ造されたものではないのか?という点もあるんだけどそれは置いておく)と表現の間のずれに悩み続けて、いつだって誤解やらなんやらにさらされ続けているわけだ。これはいかん、絶望だ、ひととひととはわかり合えない。理解とはいつだって誤解の総体であるみたいなことを村上春樹が書いていたのを読んでなんかわかったような気になってもそれ気のせいだからな。「わかり合えないってことだけをわかり合うのさ」ってフリッパーズギターが歌ったからって安心するなよ、ぼくたちはそれさえもわかり合えないから。結局「本当には届かない」んだよ。

で、うわー! 絶望だ! ってなってるけど、じゃあ仮にぼくたちの「おい! 伝われよ! これ! ほら!」っていう情熱がついにアレに勝って「意図」や「現実」が余すところなく伝えられるようになったと仮定しようか。そうすると恐ろしいことに、そこに他者は必要なくなってしまう。仮にぼくたちが自分の「内面」(などというものがあるのかさえ怪しいけれど)を完全に、完璧に他人とシェアすることができるようになったら、そういう状態って、ほんとに「他人が存在してる」と言えるんですか〜!? いるのは自分に都合のいい自分のコピーや劣化コピーだけってことじゃないですか〜!? って話になるわけですよ。

言ってみれば、ぼくたちがいつだって本当に届かないことによって、初めて他者という存在が担保されると考えても良い訳ですよ。ATフィールドが存在しなければ誰もが人の形を維持できなくなるのと一緒で、あるいは、適切にカプセル化された変数が「外から届かない、見えない」状態にされることによって初めて適切な責務を各クラスが負えるように、ぼくたちの「届けコラ!」を阻害するアレによってぼくたちは初めて自分の形、他人の形を獲得することができるっていう考え方だってあるわけですよ。

だから実はすずちうさんの言う「誤配」とかじょーねつさんの言う「薄っぺらさ」ってのは、ぼくたちにとってものすごい邪魔な壁であるのと同時に、ぼくたちに「外」を知らせてくれる、外という存在を作ってくれるものでもあるということがぼくが言いたいんですね。でも外って外だから、ぼくたちは偶然の誤配や誤解によってしかその存在を知ることができず、仮にその存在を知ることができても、決して自分のものにすることはできないという新しい絶望もまた同時につれてくるわけで、そういう一種の絶望でもありかつ一種の希望でもあるみたいなあたりのアレをぼくは「祈りっぽい何か」みたいに呼んでいて、プログラマーは適切なスコープを変数に与えることで、オタクはATフィールドについて思いを寄せることで、音楽家はブルーズを歌ったりゴスペルを歌ったりすることで、そういうアレをアレしてるんだよきっと。

ぼくはそういうアレに興味があるし、そういうのを考えるのが好きだし、これはある人から見ると「ただのあきらめ」みたいなふうに見られるみたいなアレがあって残念だったりするんだけど、あきらめとはまたちょっと違ったブルーズみたいなアレを私は今後もブルージンしていきたいなと思う次第であります。