稀風社の「海岸幼稚園」を読んだ

稀風社(id:kamiharuid:suzuchiuの短歌同人)の「海岸幼稚園」を読んだ。ので感想を。あくまで「印象」の話であり、批評みたいなものではない。

鈴木 & 三上はどちらも「欠落/不在」をよく歌うというのはいろんなひとが言ってるんだけど、鈴木さんの歌は「無くなってしまった」あるいは「あえて無くす」という、「喪失/消失のダイナミクス」みたいなものが結構多い一方、三上さんの歌は「そもそもなかった」という、「static に、あるいは構造的に欠落している/不在である」みたいなものが多いとわたしは感じて、同じ「欠落」でも、そのあたりにふたりの歌の手触りの違いが出ているのかな、と感じた。

言い方を変えると、鈴木さんの歌はどちらかというと「時間的」な歌が多いけど、三上さんの歌はどちらかというと「空間的」な歌が多いと感じる。

このふたりの歌は「"私"の不在」みたいにいわれることも多いけれど、不在なのは「私」だけじゃないと思う。私小説的ではないものをよく歌うふたりではあるから、確かに「私」の不在というのは納得できるのだけれど、このふたりにとっての不在なのは、「私」だけではない、と感じる。あらゆる「主体」が不在である、といったほうがむしろ正しいのではないかと思う。

「私」も主体だし、「あなた」も主体である、言い方を変えると「主体」というのは無数にある。あらゆる存在が主体たりうる。それを突き詰めていくと「特権的な私」とか「特権的な視座」は失われて行く。あるいは、彼らは「私」以外の存在(それは無生物であったりもする)に対して偏執的なまでに「主体性」を付与する。

ビートルズの「I Me Mine」はジョージ・ハリスンが書いた名曲のうちのひとつで、誰かが「私」を特権的に置く視座に対しての一種の叛逆を歌った歌だと解釈することができると思う。けれど、これはあくまで「あなた」が特権的である、ということに対する"異議"として歌われているようなところがある。

一方、誰かの特権性を非難するわけでもなく、不在というモティーフをもって、「○○の特権性は自明ではない」ということをほのめかすという形で、しかも飄々と、ユーモラスに、「私もあなたも彼も彼女もあれもこれも特権的ではない、のかもね」と歌うふたりの歌は、めちゃめちゃ冷徹な視座に支えられつつも、「だれひとり特別ではない、あるいは特権的に尊い主体はありえない、それは逆説的にすべての主体が等しく尊いということなのだ」という優しさを持っているのだな、と私には感じられるのだった。

良い歌集だと思います、タコシェで通販してるそうなので気になったら購入すると良いと思います。