「才」を「オ」と書いても問題ないが、「ツ」を「シ」と書いたら問題がある話は結構面白い問いだと思う

漢字テストが理不尽である、という話は定期的にインターネットを駆け巡る。最近も「才」を「オ」の形(これちゃんとわたしが意図したグリフで見えているかが環境依存なんだよな……)で書いたのが「間違い」扱いされた話が話題になっていた。

最初にわたしの立場を明らかにすると、わたしは「読める、なおかつ他の文字と混同されないような特徴があればそれは正答とすべきだろう」の立場であるけれど、この問題は一方で「算数の掛け算の順序問題」とはだいぶ違う種類の難しさを孕んだ問題であると思う。

というのは、掲題の通り、「才」を「オ」と書いても「同じ文字」とみなしても問題がないとされている(see 漢字のとめはねはらい等こまかな形状で正誤を決めてよい根拠はありませんファイナルアンサー2023リンク集 - なないち研 ) が、一方で、「ツ」と「シ」を同じ文字とみなしては(今のところ)問題が生じるという話があるからだ。あるいは「未」と「末」を分けるものはなにか、という話でもある。

これは、「シ」と「ツ」には、それぞれが排他的に理解されるという、ある種偶然で恣意的な線が引かれているが、一方「才」と「オ」にはそれが(今のところ)引かれていない、という話である。つまり、「シ」が「シ」として理解されるのは、それが「ツとは異なる特徴のある形をしているから」であって、「左上から右下に向かって比較的短い線が2本書かれていて、右上と左下を結ぶ、前述のふたつの"比較的短い線"より長い線が書かれている形をしているから」ではない(ためにしに「ツ」という文字が前述の特徴を満たすかどうか確かめてみらたいい)。

もちろん、当然、「才」と「オ」の件に関しては「カタカナと漢字で違うからだろ」という素朴な反論がありうる。けれど、じゃあもし「オ」という形の「才」と異なる漢字が仮に存在していたら、「オ」は「才」と了解されないだろう。これはそういう話だ。

ということを考えると、実は「漢字テストの採点基準」というのは、そもそも「形と漢字の対応関係」が恣意的である以上、本質的に恣意的な性質を帯びていると私は思っている(これは「今の厳しい基準が恣意的だ! 悪だ!」という話ではなく、その基準を緩めにするにしろ厳しめにするにしろ、どちらにせよそこには恣意性が入っている、という話だ)。だからこそ、現実的には「本質的に恣意的なので、"大枠の形が合っていて、別の字に読めるわけではないもの"は正答の側に倒すくらいのゆるい運用が望ましいだろう」という意見になるのだけれど、一方で、この問題は「そもそも文字とはなにか、われわれはどのような形で文字を文字として認識し、言語として扱っているのか」という話とか、記号と意味の結びつきの恣意性とか、言語ゲーム的な話とか、そういう言語そのものの謎あるいは性質にとって面白い問いになりうる問題なので、単に「国がこう言ってるからこうなんです〜」みたいな話で終わらせるともったいないと思う。

というか、そういう話があるからこそちゃんとした研究に基づいた文化庁の見解が「読めて他の文字と区別できればヨシ!(意訳)」となっており、一方現場では(無意識にでも)「そもそもそれが恣意的だから現場の運用で厳し目に倒すしかないんじゃい!」という「ハック」が必要となるんだよな、多分。