シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| 観た

ひとによってネタバレの範囲は異なるし、いつまでネタバレを回避すべきかもというのも明確なラインはないように思うし、情報は受け手がフィルターすべきだと思っているので、受け手がフィルターできるように最初に書いておくけど、直接的なネタバレらしいネタバレは書いてないつもりではあるけど人によってはネタバレだと感じる内容かもしれないので、ネタバレ嫌な人は読まない方がいい文章かもしれません。

それでも構わないひとだけこの先をどうぞ。

すでに大人になったひとたちのためのアニメだと思う。

シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| 観た。結論から言うと、今の自分にとっては良かったと思える作品ではあったけど、ATフィールドをめぐる物語ではなくなってしまっていたし、ATフィールドによって傷ついていた過去の自分を救うものではなく、その頃の自分の切実さが少しずつ見えなくなっていく自分を救うものだな、とぼくは受け取った。

ぼくの好きなバンドである「ノンブラリ」の曲に「美しい日々」という曲がある。その中に「ぼくら大人になって 春の電車に乗って 知らない遠くの街へ 行けるようになって 見えないものも増えたし見えるものも増えたんだ それは思っていたよりも ずっとずっと美しい日々」というフレーズが出てくる。普段歌詞の意味を意識的に聴くことは少ないんだけど、ぼくはこの曲の歌詞の「見えないものも増えた」というところがすごく好きだ。大人になると思春期のころに感じてたはずの痛みとかいろんなものが、ほんとうに見えなくなってしまう。それはぼくだって例外ではない。思春期の頃に感じていた痛みを、たぶんぼくはもうそのまま見ることはできないだろう。でもそのかわりに見えるものも当然増えていて、それは当時見えなかった人の優しさだとか、自分の中にもその優しさを育むことができるのかもしれないという気持ちだとか、そういうの。そして、思春期のぼくは絶対に思い至らなかったこととして、思春期の痛みはなくなったわけじゃなくて見えなくなっただけなのに、それでもそれは思っていたよりもずっと美しい日々なんだ、という話が、たしかにある。

けど、けど、じゃあそれで思春期の自分は成仏できるのか? という話も同時にある。「大人になって、見えないものが増えて、見えるものも増えた、できることも増えた。それは悪くないよ」と大人を慰めたところで、きっと思春期の自分は成仏しないし納得しない。思春期の頃の痛みが見えなくなってる大人の自分は慰められるし、それでいいんだと背中を押してもらえる。そしてそれは素晴らしいものだと思う。だからノンブラリの「美しい日々」も素晴らしいものだと思えるしすごく好きな歌詞だ(編曲の良さ、メロディの良さ、演奏の良さについて語り始めるとただでさえ長いテキストがさらに長くなるし、今日の本筋とは異なるので涙を飲んで割愛する)。けど、シンを観て「思春期の頃の自分が成仏した」とはならないな、というのがぼくの感覚だった。だから、思春期の痛みが、まだそこにあるのに見えなくなっていることに対して一抹の罪悪感を持っている現在の自分は救われるけど、過去の自分が救われるものではなかった。あくまでぼくの場合は、だけど。

別の言い方をすると、「他者という痛みが存在しない世界よりも、他者という痛みがあったとしても相補性のある世界を望む」という出された結論はEoEとシンで変わらないけれど、EoEからは「他者という痛み」に切実さをぼくは受け取ったし、シンからは「相補性のある世界を望む」という部分に切実さを受け取った。シンよかったけど、Qの感想を書いた時に思った「相手を理解したい、自分を理解して欲しい、けどどうしたらいいのかわからない」という切実さが今回のシリーズでは全然感じ取れないという感想は変わらない。だから、「他者という痛みの切実さとどう付き合うのか」というEoEの問いに対する回答にはなっていないとぼくは感じた。当然回答がまったく用意されていないわけではなくて、想像上の他者ではなく、現実の他者とそれぞれの役割を補い合いながら生活をすることによって他者という痛みと上手に付き合えるようになっていくんだというメッセージはきちんと用意されてはいるけれど、そのメッセージがあの程度の描写できちんと刺さるのはぼくたちがすでに現実の中でそういう経験をしてきているからであって、思春期の自分があれを見てもポジティブな気持ちにはなれなかったと思う。そういう意味では、肝心の「どう大人になるのか」を描写する部分は、観客の経験に丸投げされてる作品だと言っていいと思う。

けど、EoEの問いに対する回答が十分ではなかったからといってダメな作品かというと全然そうじゃなくて、EoEの存在を前提にした場合、「他者という痛みの切実さを抱えた子供の自分を、なかったことにはせずに、ただそこに置いていって、見えなくなっていっていいんだよ。そうして初めて、子供たちに対して果たせる役割が大人にはあるよ」と大人たちを慰める作品としては素直に良い映画だったなと思える。(逆にいうと、EoEという前提がなければ「他者という痛みの切実さ」が欠けたものになっちゃってるように自分には感じられる)

これは、シンがダメな作品だって言ってんじゃなくて、ただぼくがエヴァンゲリオンに期待していたものが「他者という痛みの切実さをどう受け入れるのか」という葛藤であって、「切実さが見えなくなっちゃったよね。けどそれでいいんだよ。そうなって初めて見えるものもあるし、それによって初めて果たせる役割もあるよ」というメッセージではなかったんだ、というだけの話で、その部分(だけ)がnot for meというだけ。だからこれがエヴァじゃなければ手放しで好きになれたと思う。ただ、エヴァだからこそEoEで描かれた痛みの切実さとそれと向き合う覚悟が作品の前提にあるし、その前提があるから良い作品になってるとも思うので、なんだか複雑な気分ではある。

総じて、EoEで描かれた他者という痛みの切実さ、それとむきあう覚悟を、無かったことにせず、けど見えなくなっていっていいんだ、その代わりにできることも増えるんだ、というシンはいい映画だなと素直に思えるし、観てよかったとは思う。

ただ、観てよかったと思えるのはなぜかと言うと、映画の中で、かつて思春期だった大人たちが、「自分たちはもうあの頃の切実さが見えなくなってしまっている」ということを自覚しているように描かれているように自分には見えるからだという部分がかなりある。なので、視聴者の大人たちが「思春期の頃の切実さが見えなくなっている」という大人の不能性の部分を都合よく無視して「大人になったんだね、素晴らしいね、卒業最高。はよみんなも大人になろうな」みたいに言ってたら「おいおい待てよ」って思っちゃうし、自分はそういう感想は持てねえし、そこにまだ存在する、見えなくなっただけの痛みを都合よく無かったことにして「大人の方がえらい」するようなやつにはなりたくねえな、と思う。「なかったことにはしない」ってそういうことだと、ぼくは思う。なかったことにはしない、でももう見えない。だから自分たちにはもう見えないものを見えている子供達に対して敬意と愛情をもって接する。そういう作品だと思う。