暇にかまけて

暇。いい響きだと思う。声に出してみる。ヒマ。とても良い。「ヒ」の音でちょっと勢いづいた感じがするも、マ行の発音をするためには一度唇を閉じなければいけないこの感じが、いかにも暇という言葉の甘美な後ろめたさを表しているように思う。

これがもしも「ヒマ」ではなくて「ヒカ」とかだったら、あまりに印象がシャープにすぎる。暇にかまけてよしなし事をそこはかとなく書きつくるようなことは許されないような、そんな感じがする。逆に「ニマ」くらいまでいってしまうと、今度はほげほげとしすぎていて、なんとなく忙しい世間から取り残されるような後ろめたさが感じとれないではないか。

この、シャープなわけでもなければ、ほげほげとし過ぎているわけではない、そんな捉えどころのない「暇」というものについて、少し考えてみたい。

ぼくが「暇」について考えるときにいつも頭に浮かぶのは、スチャダラパーの「暇の過ごし方」という曲だ。これは WILD FANCY ALLIANCE という名盤に収められた曲で、これを「要約」してしまうのは非常に気がひけるというか、それこそ「要約」のような行為はどちらかというと「暇を許容できない」側の好むようなもののような気がするのだけれど、それはそれとして無理に要約を試みれば、「暇が悪いことみたいに言われるけど、暇ってそんなに悪いことか?」みたいな曲だ。ちなみにぼくは「大仏 ピラミッド 巨乳 万里の長城 この世の多くのデカいものの 発想自体ヒマの賜物」というフレーズが好きだ。巨乳がそこに入る発想どうなってんだよ。その「でん」であれすると、まあこの文章自体も「ヒマのなせるわざ」という感じがしないでもない。ともあれ、この暇ってやつの「一筋縄ではいかない感じ」の一端がこの曲にはあらわれているような気がする。

たとえば数学。ある種の「現実的な」ひとたちからすると、もうなんていうかキング・オブ・暇のなせるわざだと思うんですよ。「それなんの役にたつの?」出たよ「現実的」なひとたちの伝家の宝刀。とはいえ数学は多分まだマシなほうで、たとえば「いやいや、一見単なる数字遊びに見える素数の研究が、じつはコンピュータの暗号のためにすごく役にたってるんですよ」というような話があったりするわけだから。ただ、これもおかしな話で、おそらく多くの数学ファン(数学が得意なわけではないけどそのファン、というのはけっこういると思うのですよ)は、数学が役にたつかどうかなんてほんとはどうでもよくて、単純にそれがそれとして面白いんですよね。役にたつからやってるわけじゃないはず。さらに言うと、ある種の「現実的な」ひとたちからしてみたら、数学のこと考えるのに一日のうちの多くの時間を使うみたいのは「暇だね〜」って言いたくなるような感じだと思うんですけど、数学のひとたちの頭の中は暇どころか数学で忙しかったりすんだからな。わかっとけよそれ。

なんか話があっちこっちに飛んでるけど、そんな感じで「暇」ってやつはなかなか一筋縄でいかないところがあるとおもうんですね。自分自身の話に引きつけて言うと、ぼくはもう子供も生まれていい年したオッサンなのに、音楽がやめられないんです。「そんな暇あったら」って言われたことも一度や二度じゃないですよ実際。「音楽なんかやってる暇あったらXXできるでしょ」「いつまで音楽続けてんの?暇だねー」みたいな。

しかし一方で、いるんですね実際。「そんな暇あったら」って感じで、いわゆる「生産性のあること」を四六時中バリバリやってる大人たちが。そういうひとたちの生き方はたしかに暇ではない。暇の入り込む隙間を無くして無くしてビッシリと生産する人たち。どっちかっていったら「ヒカ」って感じの過ごし方してるひとたち。

そういうひとたちに対して後ろめたさみたいなのを感じてる一方で、「そんな暇あったら」って言われながらも音楽辞められないみたいなぼくはたしかに「ヒカ」でも「ニマ」でもない「暇なひと」なのかもしれないと思う。でもね、いいじゃない、それで、とも思うんですよ。「そんな暇あったら」でバリバリ生きていくの、かっこいいし尊いと思います。けど、「そんな暇」とともに過ごすのもまた、人間に備わった高度な機能だと思うんですよ。だめ?許してくれない?

あなたは「どんな暇」を過ごして過ごして生きていますか?「こんな文章読む暇あったら別のことすればよかった」と思われてなければいいなと思います。