世界とのチューニングを合わせることについて

世界とのチューニングを合わせることに苦労する、という感覚は、多かれ少なかれどんなひとでも持ってるのではないか、と思っている。

それはたとえば、飲み会でうまく立ち回るみたいな具体的なことから、なんとなくうまく世界に馴染めないみたいな曖昧なこともあるだろう。それは時には「どう働けばいいのかわからない」という形をとって現れたりもするだろう。そうすると大変だよね。

ぼくの知り合いで、めちゃめちゃ仕事ができるのに、「切手の値段がどう決まるかわからない」と言って封筒を出せずに毎回レターパックを使っているというひとがいる(というかさっきそういう話をツイッターでしてるのを見かけた)。「ググればいいじゃん」と思うことなかれ。おそらく彼にとって「郵便システム」という世界の一部とチューニングを合わせることは、ほかのひとには感じることの難しい困難さを伴うことなのだろうと思う。しかし彼は仕事ができる。それは、彼がほかの部分で全体的にはうまく世界とチューニングを合わせることに成功していることの証左でもあると思う。あるいは、そこで「レターパック」にフォールバックできてるのが、彼なりのチューニングの合わせ方とも言えるだろう。

翻ってぼくはどうか。なんとか働けているし、家族も持っている。大学の頃から続く友人のひとりは「ぺーちゃんはなんか普通にうまく大人になってるよね」と言う。言外に「あんなに大学生の頃はナイーブだったくせに」という圧を感じたりもするけど、それはぼくの被害妄想かもしれない。ともあれ、客観的に見たらぼくも「全体的にはうまく世界とチューニングを合わせることに成功している」と言えるのではないだろうか。

しかし、最初に言った通り、世界とチューニングを合わせることに対する困難さは、おそらく多かれ少なかれ誰だって感じているんじゃないか、とぼくは思うわけだ。もちろん、ぼくだってそれは例外ではなく、でなければこんな文章を書いていない。し、こういう文章を書くことでぼくのダイヤル(ラジオのチューニングをイメージしてます)をメンテナンスしてるような感覚すらある。

とはいえ、なんにせよ、いまのところ、暫定的に、ぼくは運と縁によって、なんとか世界とチューニングを合わせることに成功してるわけだ。いま「運と縁」と言ったけれど、もし、たまたまぼくがプログラミングを趣味としてなかったら、あるいはあのときぼくに声をかけてくれたあのひとやあのひとが居なかったら、おそらくぼくは世界とチューニングを合わせることの困難さに押しつぶされていたのではないかと思う。

じゃあ、運と縁によって、たまたまうまく世界とチューニングを合わせることができているぼくは、この困難さにいま押しつぶされそうなひとたちに対してなにをするべきで、なにをするべきではないんだろう。

なにをするべきではないか、というのは簡単だ。「お前が苦しいのはお前のせいだ」と言わないこと(信じられないけど、そういうことを言うステンレスみたいな人間がいるんだよ、世の中には)。

じゃあ「なにをすべきなのか」ということについてはどうなんだろう。よくわからない。けど、まあ一般論として、そこにぼくという他人が深入りするのはなにか違うと思う。だって、世界とどうやってチューニングを合わせるかはそのひと固有の問題で、ぼくが手出ししていい領域ではない。

いまは、なんとなく、そういうひとたちに対して「目配り」をしながら、自分が運と縁に恵まれてることに対して少しばかりの後ろめたさをもって、でも、世界とのチューニングを合わせるのが困難なこんなぼくでも楽しく生きてるよ、という姿を見せるくらいの態度で生きていたいな、と思っている。それが暫定的ないまのぼくの態度。

世界とのチューニングの話でした。