大人と物語ることと混沌について

ぼくは最近、大人になるというのは取りも直さず、自らを物語るということなんじゃないか、と思うことがある。

ぼくたちは、自己だとか内面だとかいったものが先にあって、そいつらがぼくたちの選択や人生を駆動している、とついつい思いがちだ。けど、自己だとか内面だとかなんてほんとうは存在しなくて、それは「物語られる」ことによって遡及的に見出させれるようなものなんじゃないかな、ってぼくは思うことがある。

ぼくたちの精神や自己というものは、なんとなく一本筋の通った物語として理解される形で総合されたものとして普段は認識されている。たとえばぼく自身について語るなら、「文学部で哲学を学んでいたんだけど、御多分に漏れず哲学で就職できるわけもなく、趣味で書いてたプログラムでひとまず仕事を始めてみたら、これが趣味でやってたときよりもずっと奥が深くておもしろくてどハマりした。コミュニティ活動とかしていく中で、技術雑誌の記事の執筆のお話をいただく機会に恵まれ、思わぬ形で商業誌に自分の文章が活字として載ることになり、文学部のころの自分とプログラマとしての自分がなんだか面白い形で統合されていまの自分がある」といったような。

けど、ぼくたちの生というのは、ほんとうはこんなふうに「物語られて」いいようなものではないとも思う。この物語には、たとえば昨日食べたドーナツの味だとか、キャンパスの喫煙所で1人で喫煙してたときに隣でタバコを吸ってる二人組がしていた興味深いフランス思想の議論だとか、B tree indexを初めて理解した時の深い驚きと先人への尊敬だとか、なんとなくダラダラ過ごしてしまった日の夕方に友人から飲みに行かないかと誘われてアパートの部屋を出たときに見た夕暮れの色の後ろめたさとか、息子が「おかたづけ」を「おたかづけ」と発音してしまうこととか、そんな全てがまるっきり排除されてしまっている。

ただまあ、これは当然のことで、そんなすべてを物語に全部盛り込んでしまったら、「なんの話なんだこれは。なにが言いたいんだ貴様は」ということになってしまう。ぼくたちは、「無駄」なことを刈り込み、編集、編纂することで、自分にも他人にも理解可能な自己像や内面を、物語として騙るのだろうと思う。

そうして、ようやくぼくたちは自己を理解可能な形に調整し、他人とコミュニケーションをとり、社会を形作って行くんだと思う。だから、大人になる、ってことはたぶん自己を物語ることから始まるという一面がある。そんなふうにぼくは思う。

それでも、整理されて理解されやすい、遡及的に見出された内面だとか自己なんかより、もっと無指向ででたらめで、筋の通った物語として理解できない、あるいはされないような混沌、物語るときにとりこぼされてしまうような混沌を、ぼくは捨ててしまいたくない。それは物語られず、整合性がなく、だから理解不能で、社会的には「要らん」もので、けど、とても美しい(いや、こうして「美しい」と語ってしまった瞬間にそれは「美しさ」という言葉によって刈り取られ、スポイルされてしまうのだけれど)ものだ。

ぼくは、そんな混沌に混沌のまま触れたいからこそ、音楽を聴き、漫画を読み、小説を読み、お酒を飲み、仕事に関係なく役にも立たないコードを書き、こうした雑文を書くのだろう。いつまでも大人になりきれない、「要らん」ものを捨てられない子供なんだけど、それでもいいかな、と思ってしまうのだった。