頭のいいひとたちの褒め合い見てらんないって話

世の中にはインテリさんたちがたくさんいまして、はてなや twitter やら blog なんかだとどうしてもそういう「頭のいい人」が目立っちゃうみたいなとことある(観測範囲の問題っぽいけど)んだけど、最近そのひとたちがしゃべってるの見てると、「あーこのひとたちにとってワゴンRを駆って深夜のドンキホーテに集い、ハローキティのスウェットでワンピースを読むひとたちは存在しないことになってるなー」ってのをすごい感じることがある。

web サービスとかもそうだけど、webサービスに限らず「より良い世界にする!」みたいなことを言ってるとき、その「世界」にドンキが入ってないとしたら、それはとても傲慢なことなんじゃないかなー。自分も多分そういうことやってることあるので、ドンキホーテについてもう少し考えたほうがいい。ニコ生とかYouTubeのコメント欄とかAppStoreのレビュー欄で暴れてるひとたちの姿が美しいとは思えないけれど、小学校のころのこととかを考えるとそういうひとたちってのは決して無視できない数いるわけで(というか、だからあれだけインターネット上でも見かけるわけで)、より良い世界とかを語る/考えるならそれを「織り込んで」おく必要はあると思う。それを織り込まないというのならば「自分が語っている/作ろうとしている、より良い世界/インターネット」ってのが一部のひとたちだけのためのものだっていうことを忘れちゃいけないだろうなーって思う。

なにが言いたいかって言うと、スコープを自覚的に頭良いひとむけに限定してるならそれはそれでいいけど、そうじゃないと言うのなら、頭良い人たちは頭いいんだから自分と同質の頭良いひとたちのことばっかり考えてないで、もっとドンキホーテとかパチンコやってる間に生まれて間もない娘を車の中で死なせるひとたちみたいな、自分にとって異質のひとたちのことを考えることにもその頭のよさを使ったらいいのにねって思うんだよぼくは。頭のいいひとたちが頭のいいひとたちのことしか見えてなくて頭いいひとたち同士で褒め合ってるの見るとなんか妙にモヤモヤする。