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日記、文フリがある

文フリという、一部のひとから多大な関心を寄せられているけどその他にひとにとってはどうでもいいみたいなイベントが行われるのだけれど、そこで稀風社という短歌結社が「海岸幼稚園」という本を出す、らしい。らしい、というのは、わたしがこの稀風社とは「メンバーと友人である」という接点しかないからなのだけれど、わたしはこの本がとても気になっている。まだ読んでないから「良い本」かどうかは知らない。

そういうイベントでそういう本を友人が出す、という話を知った(というかそれは知ってたんだけど表紙を見た)ときに頭にめぐったことをなんとなく書き記しておきたいと思って今雑文を書いている。言うなれば日々のできごとを書かない日記みたいな。プログラマー文化圏ではこういうの「ポエム」って言うんだっけ? でもそのプログラマーの言う「ポエム」とも微妙にニュアンスが違う気がするのでやっぱり「日記」でいいだろう。

関係あるようでないことを話すけど、わたしは大学を選ぶときに「就職とかないだろうな〜」って思いながらも文学部を選んだ人間で、別に「文学を志す」みたいな感じではなかったけれどそれなりに文芸の類いには関心が強かった。最近はわたしの表現のフィールドは音楽とかプログラミングのほうに移っている(とはいってもそれもばりばりとやってるわけじゃなくてどっちかっていうと表現の文脈で見ればたいしたことできないけど)。それはわたしの表現に関する興味関心が「自己」とか言うなんかよくわからないものではなくて「構造」のおもしろさに向けられているからかもしれない。しかし文章を描くとなんかいつも「わたしは」とか「わたしの関心は」とか言ってるんだよな。なんだこの矛盾。この文章自体もその矛盾に溢れてるんだけど、つまりわたしにとってそういう関心に合致するアウトプットを出しやすいのが、音楽とかプログラミングのほうだったのだろう。たぶん。文章は内面の表明に向きすぎていて、放っておくとそっちに流れちゃう。水は低きに流れる、努めて意識しない限り。

そしてまた関係あるようでないことに話は飛ぶんだけど、今我が家は一家全員ノロウイルスにやられていて、この一週間は地獄の様相を呈している。その中で、ちょっと不思議な体験をした。熱が結構出たことで思考能力が失われたのか、いきなり「世界の構造が見えなくなった!」みたいな恐怖に襲われたのだ。もともと本当は世界の構造なんて見えてないんだけど、それでも今まで積み上げてきた「解釈のルール」みたいなものはある。それはたとえばエネルギー保存の法則だとか、ツーファイブの解決感(音楽の話)だとか、単一責任の原則(プログラミングの話)だとか、ATフィールド(アニメの話)だとかという、今までだれかに見いだされてきた「世界解釈のフレームワーク」の寄せ集めなんだけど、一見無関係なそれらがなんとなくいつも自分の中で整合性を保っていた。この「なんとなく」っていうところが面白いところで、ちゃんと説明しろって言われるとなんでそれらが整合性を持っているのかわからない。けどそのバラバラのよせあつめをひとつにまとめる「糊」みたいな役割してた部分が、熱でおかしくなっちゃったんだと思う。熱でうなされてるときも、それらひとつひとつについてはちゃんと考えられたんだけど、それらがばらばらのものである、ということが急に怖くなってしまった。これはなかなかに不思議な体験で、熱が下がった今になってみれば面白い体験だった。

雑文なのでほんとうに雑多にとっ散らかっているけど、稀風社の面々の文芸とこの文章も、わたしのなかではきちんとつながっている。わたしが「海岸幼稚園」の表紙を見て「良いな」と思った、という日記を書くとこうなるみたい。こういうのはいつも書く明確に目的がある文章とだいぶ勝手が違って戸惑うな。雑文が書けない体になってしまった。けどまあ、日記ですからね、いいでしょう。