科学とかそういうのに対する不信の話

「専門家達の作り上げた検証のプロセス」に対しての不信が強いひとたちというのが一定数いるように思う。

たとえば、編集作業はどんな編集であろうとそれそのものが悪であり、編集されていない生の声が見れるインターネット上の言論こそが本物だ!と主張するとか。あるいは、歴史学のプロフェッショナルたちが主張する史実に対して「それは事実ではない!」と言ってみたり。あるいは、原子力発電に関する専門家達の知見はすべて「御用学者によるまやかし」だと言ってみたり。

専門家に対する不信だけではなく、専門家たちが作り上げてきた「少なくともなにが正しくないかということを検証する」というプロセスに対する不信が、こういう主張の後ろにあるとわたしは思っている。

たとえば、わたしは Nature に論文が乗ってれば安心する。中身がきちんと理解できなくても。それは、「権威があるから」ではない。そこにはきちんとした査読が付いていて、おかしなことを言ってれば「おかしいから載せられないわ」という検証のプロセスがきちんとあるということを信頼しているからだ。

でも、プロセスに対する不信があるひとは、そうではない。彼らにとっては査読は「権威主義」だし、「権力が自分に都合の悪いことを葬り去るための制度」になってしまう。たしかに、ここで働いている検証のプロセスは言って見れば「情報の選別」であって、その選別が本当にきちんとしたものなのかは信頼するしかないので、その根本に不信があればそのようになるのは論理的にはおかしくないと思う。

ただ、わたしには、少なくとも学問の中では、間違えたことが「間違いだ」と分かったときには訂正されるという信頼がある。なので、その学問の提出する知見を(一定の担保つきで)信頼することができる。実際、たとえば歴史学だったら新しい史料が発見されれば「教科書の内容」だって書き変わる。学問は、そうやって、「訂正しながら進んで行く」ものだとわたしは信頼しているし、だからわたしは、歴史学の提出する史実を一定の担保つきで信頼できる。一定の担保とはつまり、十分な史料があればあとで覆るかもしれないけど、ずぶの素人が「じつはあれは嘘でね」みたいなこと言うよりも充分に信頼できる。

いろいろと書いているけれど、わたしはべつにこの信頼をしないひとを馬鹿だと言いたいわけではない。そういう人をアホだとか馬鹿だとか馬鹿にすることは、そうでないひとにとって溜飲を下げる効果はあるけどそういう効果しかないし、逆にディスコミュニケーションのきっかけになったりすると思う。

わたしは、これは、知能の問題というよりも、信頼の問題なんじゃないかなと思っている。実際、ある分野できちんとした成果を上げていて、明らかにきちんとした頭脳を持っているのに、自分の専門分野以外に関しては「専門家の作り上げた検証のプロセス」を信頼していないひとだって一定数いる。

この「プロセスに対する不信」あるいは逆に、「プロセスに対する信頼」っていうのは、どこから生まれてるんだろう。ということを、最近よく考える。結論はない。ただ、この話を考えるときに、その信頼/不信の源泉っていうのはどこなのかな、という視点はあっていいと思うし、わたしはそういう視点で最近ものを見ているよ、というお話。