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言葉を上手に使うのなんてほんとうはくだらないという話

ちょっと自信過剰なようだけど、わたしはたぶん平均レベルよりも上手に言葉を使うことができる人間だと思う。process-book とか Git をはじめからていねいに とか、自画自賛だけど上手に言葉が使える人間じゃないと書けないもん。

でも、「言葉を上手に使う能力」なんて、ほんとうはくだらないな、と思う自分もいる。

言葉を上手に使えるほうがたぶん「役に立つ」とは思う。ひとになにかものを伝えるときには言葉はものすごく効率の良い方法だし、情報を整理するときにもわたしたちは言葉を使って情報を整理している。だから言葉を上手に使えると情報を構造化して整理することができて、いろんなことを効率よく行うことができるようになる。

でも、それってたんに「効率」の問題なんだよね。

人間の生活だとか、感情だとか、あるいは世界そのものっていうのはほんとうはもっと混沌としていて、ほんらいは効率なんてものとはなんの関係もないものだと思う。

「わたしは悲しい」と言う。その瞬間に、わたしの感情は「悲しい」という状態を与えられてしまう。ほんとうは人間の感情なんて整理されてなくてぐちゃぐちゃで不定形で理解なんて不可能なのものなのに、「わたしは悲しい」と言った瞬間に感情は形を与えられ、整理され、了解可能なものに刈り揃えられてしまう。

世界だって、ほんとうはもっと混沌としたものなのだと思う。でも、わたしたちはいろんなものに名前を付ける、言葉で整理する。そうすることで世界はわたしたちが了解可能なものに刈り揃えられて行く。

もちろん、不定形で豊かすぎるものを刈り揃えて了解可能なものにしていかないと、処理能力に限界のあるわたしたちはなにひとつできないから、それは必要なことではある。だから、言葉を上手くつかっていろいろなものを刈り揃える能力は、そういう意味では必要なものだとは思う。

でも、それは、ただの「効率」の問題にすぎなくて、ほんとうは、わたしは、そんなことしないで、感情を感情のまま味わいたいし世界を世界のまま味わいたいな、っていう気持がある。

たぶん、よのなかの音楽とか、漫画とか、映画とか、そういう「無駄なもの」って、言葉を上手に使うこととだいぶ遠いところにあって、ほんらいは了解不可能なものを了解不可能なままにこっちにぶつけるような、「ほっておくとぜんぶを刈り揃えてしまうわたしたち」に対する反逆みたいなものなのかもしれない。

とはいえ、わたしたちはごはんを食べなければ死んでしまうし、そのためには「効率よく」世界を了解可能なものとしてコントロールしていく必要があるわけで、芸術なんて、最初から敗北が決まった無駄な抵抗みたいなものなんだとも思う。

でも、わたしはやっぱり、「言葉を上手く使えるというのは便利だけど、ただそれは便利なだけで、ほんとうはくだらないことなんじゃないかな。音楽を演奏したり、聴いたり、踊ったりすることとかに比べたら」と思ってしまうのでした。と、言葉を使って今日も書くのだった。