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優しさと誠実さをめぐるあれこれ

たまには技術以外のことを書くのも悪くないのではないかと思ったので、そういうことを書く。

大学のころぼくはずっと優しさと誠実さについて結構本気でいろいろと考えていて、そんなわけで恥ずかしながら好きな本というか「外せない本」はジャン・フィリップ・トゥーサン「浴室」とかそういうインテリジェントな感じがするものではなくて、「ライ麦〜」だったり「さよなら怪傑黒頭巾」だったり「ダンス・ダンス・ダンス」だったりした。今でもやっぱり好きな本や漫画は、優しさとか誠実さみたいなものの周りをうろうろしながら進んで行くようなものが多い。じつはいまだにそれらに対する答えが出ているわけではないのだけれど、最近ようやくひとつの区切りとなるような考え方が身に付いてきた。

ぼくはずっと優しさとか誠実さを、静的な属性として考えていたようなところがある。別の言い方をすれば、優しさや誠実さというのは個人や行為に属する「性質」であると考えていた。でも、最近はそれってちょっと違うんじゃないかな、と思いはじめている。実は優しさや誠実さというのは身長や体重のような静的な性質ではなくて、他人や物事など自分の外部のものとなんらかの形で関わるとき、その度に生成/消滅するような、フローとしてしかとらえられないようなものなのではないかと最近は考えるようになった。

卑近な例をあげよう。落ち込んでいるひとに対して、「すこしでも気分が晴れるように励ましてあげたほうがいい」と考えるひともいれば「そのひとが落ち込んでいる原因や、そのひとの気持ち全部を自分も一緒に引き受けるくらいに覚悟がないなら、無責任に励ますのはよくないことだ」と考えるひともいるだろうと思う。それらのどちらが正しいのか? というのは、身近な問いではあるけれど、意外と難しい問いだと思う。ぼくはこういう身近な小さな問いにたいして、自信を持ってどちらが正しいと答えることができない。そしてずっとぐるぐると優しさと誠実さについて考え続けることになる。でも、そもそも、優しさや誠実さは静的な性質ではなくて多数の関わりの中で都度生成/消滅するフローだと考えるならば、それらを静的な判断基準で計ろう、判断しようということ自体に「無理がある」んじゃないか、とも思うわけだ。

最近ひとつ発見だったのは、優しさや誠実さは常に関わりのなかで都度生成/消滅するものであるという認識を持たないで、「何が誠実さ/優しさという性質の本質なのか」みたいな問いでやっていくと、誠実さや優しさと無関係な「自分ルールを作ること」に行き着いてしまうんじゃないか、ということだ。

先の例で言えば、優しさが関わりのなかで都度生成/消滅するものだとするなら、落ち込んでいるひとを励ますのが優しさ/誠実さなのか無責任な励ましをしないのが優しさ/誠実さなのかという問いに対する答えは、本来「優しさ/誠実さはフローなので、単一の基準でどちらが優しいかは計れない」となると思う。相手が何を求めているのかによってもかわってくるだろうし、相手の社会的な状況によって、あるいは自分の状況によってもかわってくるだろう。でも優しさや誠実さをなんらかの本質的な性質として考えてしまうと、ほんらい相手の状況や自分の状況によって「何が優しいか」は変わってくるのに、常に「こうあるべきなんだ!」みたいな、相手の状況や自分の状況に関わらないただの自己満足のための「自分ルール」を守るだけになってしまう。

もちろん、こういう自分ルールみたいなものは行動指針として役に立つし、必要なものでもあるので、それ自体が悪いわけではない。ただ、それを過信してその自分ルールから外れるものを「優しくない」とか「誠実でない」と切り捨ててしまうことは、最初の「優しくありたい」「誠実でありたい」という気持ちからはだいぶ離れたところに位置する行為なんじゃないかな、とも思うわけだ。

だから、優しさや誠実さについて考えるときには、それらが決して静的な性質ではない、ということを、忘れないようにしよう、と最近は考えている。ようやく出発点にたったようなかんじだ。

本当に長い間考え続けてきて、こんな小学生みたいな考えにひとまず行き着くぼくは、ひとよりもバカなのかもしれないと思った。